何かの状態に対して二者択一のとき、それのうちのどちらかを選択するということはその問いに対する答えではなくて、状態の変化でしかない。答えと言う概念は目的、結果、そういった種類の単語が一時的、一過的なものである状態においてはあまり意味をもたらさない。とか書いていたらふとこれって量子力学とかと似ているのかもねとか頭のすぎをよぎった。どちらか一方を選択した後、状態が変化されたあとでは、その決定が選ばなかったほうよりもbetterであるとbelieveすることぐらいしかできない。で、そこにあるのは個々人の主体的判断でしかなく、論理性は全くない。選択する場合においてその点で両者は同じ程度にしか価値を持ち得ない。どちらを選んだとしてもその決定に対して判断を下すのは主観以上のものがないため(特に主観の中でも価値観とかなのかね)、どちらを選択してもそれは変わらない。という変な話になる。それは主体を放棄した客観的みたいな変なもので話そうとしているから。結局自分がやりたいようにしなきゃならないわけだ。が。それはとっても難しいようです。その決定を下す場合にどのような過程を過ぎるだろうかとか仮定。判断を下すとき、それはそのどちらか一方を選んだときのあらゆることに対する影響を考えて、その両者を己の価値観で天秤にかけて一方を選択する。つまり、その天秤のどちらもが重いとき判断に困る。軽かったら本当にどちらでもいいから。判断に困ってどうするか?どうしよう。天秤自体が消滅したら良いとか考えたらそれはよろしくないから辞めましょう。どっちか破壊するとかそれもあれだからやめましょう。つまりあれだ。素直に苦しめと。両方重たいから天秤にも負担ですね。そうですね。あははーと、いうことで何かを真剣に悩むような季節がやってきたようなのでその前提条件を変更して誰にも読めないブログを作ったときに自分が何を書くのかと言う思考実験と言うか実験?。らしいよ。きっとウツとかそういった種類の何かは学校と一緒にやってくるんだ。それがなくなったらなんだ。何かと一緒にやってくるのだろう。きっと。めいびー。だからと言ってそれを迎撃しようとか別に本当はいろんなことがどうでもよかったりするんじゃないか。それと同じ程度にどうでもよくないと。ネガティブなものはポジティブなものと同居しているような気がする。