the デイ of ムービ

ということでむーらんるーじゅとバッシング感想。一応白反転しときます。それはそうと、頭髪と自殺で検索してきたのはどなたですか?お願いですから早まらないでください。私と一緒に頑張りましょう。諦めたらそこで試合終了ですよつ!

ムーランルージュ

意外と良い。金のかかったプロモーションムービーとしてみると凄いなこれ。
パロディと言うか、オリジナルの持つ素晴らしさ(それは曲の原作とかそういう意味ではなく、作品としてのポジションとしての原作ありかパロディ化かという点で発生する評価基準の差と言う意味で)とはまったく別の良さがある。
エンターテイメントの違う形として。二コールキッドマンマジ綺麗だし。エロいし。最高だね。カンカンのゴスロリ趣味も素晴らしいね。
ミュージカル独特のあの物凄い躁状態(俺にはそうしか見えない集団陶酔)は見ていてある種のカタストロフィーに誘うんだろう。そのためには映像の力を借りなければならないのはなんとももったいないことだともいえるが。その映像も色々なものパロディで構成され、多分のCGで強調されているわけだが、その強調が様式美に沿うような強調(実際に成功しているかどうかは別として)にしようとしているところが面白いのかなこのファンタジー。そう、ファンタジー。なぜか未見だけどきっと地下室の変態仮面。じゃなくて、おぺら座の怪人も同じようなもんだったのかな。つか、見なきゃ。

バッシング

早速ネタバレ及び韜晦した文体。というか、あえてメモと書いた順番そのままに放置しとく。そのせいで読みにくかったり同じこと何回も言ってますが。多分明日まとめる。

肥大する自己
画面の隅々にまで拡大し、染み込んだ強烈な自己。
ウィトゲンシュタイ的手法による独我論的な自我が拡大しすぎて消滅されるわけではなくて、それがストレスとして極限まで達したときに転調してしまう。
これは不満。

それは風景の中にさえ主人公の気配が満ち満ちていくことにも現れているだろう。街に主人公の気配が染み込んでいって、街の風景だけでさえ主人公の気配を感じてしまう。
街は主人公にとって外的なものであり、その個々の一つ一つの例として人々が現れる。外的な要素すべてが主人公が敵対すべきものとして浮き上がっていく。

それは手法としては、同じシーンの繰り返しによって出てくる。階段のシーン。主人公の自転車の乗り方の平坦さ(どこでも同じ)。エトセトラ。

海は街と自己の境界面。この場合は自己というよりも海外(具体的にはイラクだろうが)との境界。この場合、海外は自分を肯定してくれる場所であり母性的な部分なのに対して、街は否定してくる父性的な存在だろうか。この読みはどうでもいいのだが。当然ラストが背中向いているのは意図的だろうね。

そのストレス(外部から及ぼされるストレス)が発散されなければ主人公は外的なものに対する破壊として父親を殺していたか、挫折的な行為によって従順に日本の社会に溶け込んだのだろう。

ベットの上で丸くなるところとか、ワタシハアノヒトタチヲアイシテイル?だっけ?を打ち込んでいる姿とか、そういうものを映し出すのは確かに必要だろうが、どうも好きになれないシーン。その結果として強烈な自己が出ているにせよ、それは第三者的に表現されるものではなく、主観的に表現されるものであるべきであろう。

買い方を選ぶという行為は面白いと思う。俺にはそこは自己の強調として受け取ってしまったから。
買い方選べないマクドを買ったけど食べない。ついでに、買うものがおでんであり、マクドの照り焼きバーガー(そうだよね?紫色のカバー)であることは日本的なものに対する肯定であるとも受け取れね。まぁ、マクドは逆に日本以外のものの肯定でも良いんだが。タイミング的にも。
電話の声に関してはにちゃんねる的な平坦な怖さが出ててそんなに気にはならなかった。植木さんは実際にあんな人いるからということでw

父の死をきっかけとした物語自体の転調は逃避か決断か分からない。それはそのどちらもが大差ないからなのだろう。そんなものはどうでもいいのだ。ただ、キャッチコピーが「決断する」ってなってたのは微妙だった。

このストーリーで浮いていたのは主人公の自我そのもののような気がする。キャラクターのためのキャラクターはどうも嫌いです。本来ならば、主観的な世界でしかタッチできないものを第三者の目で表現し続けたがために、結果として自我が消滅することは無く、それが消極的な世界への逃避に繋がっていったのだろうか。

全然関係ない個人的なこと言うなら俺は物凄く顔のアップが嫌いみたいだ。一秒以上アップされるとイライラし始めてしまう。そういう意味で西洋アティークのドラマが見れたのは表現放棄してカタカタカターって文字で書いちゃうからだったのかも。

そんな感じで前半でストレス貯めまくられたけど(多分このストレスは大きく分けて二通りのものがあって一つは主人公に嫌がらせをする人に対する嫌悪感、もう一つは主人公の自我を見せ付けられることに対する不快感。自分は後者を感じた。)最後にうまく消滅したために、撮影的な技法のうまさだけが感想に残った感じ。
やはり、あそこで主人公がフェードアウトしないと主題が成立しないだろう。そういう意味では絶妙なのかもしれないが、どうも気に入らない。

ついでに関係ないんだが、なんでバイオのWという俺の欲しかった素敵PCを使っているんだろう?あれって明らかに高いよね?あの設定だと親が買い与えたのかしらん?けどそれっていつでしょう。あのキーボードタッチじゃねぇ。とっても不思議なことだ。とか、余計なことを考えてしまうのです。あとは、主人公以外の部屋には生活臭がないというのもやはり、主人公以外がキャラクター化されているって事の一つじゃないのかな。