バッシング

ネタバレあり。反転してません。







『バッシング感想』

この映画の主題は『肥大する自己』という表現に収まるのではないだろうか。それは社会的問題を焦点に添えながら、それとは全く異なる一個人の在りかたというものをあらわしているからだろう。

初めて登場したシーンから徐々に画面の隅々にまで拡大し、風景の中にまで染み込んでいく強烈な自己。それは街(居場所)と言うものと主人公が相対化されながら、同時に或るものとして示され続けることによって切っても切れない関係が強調されていくからだろう。
これは手法としては、同じシーンの繰り返しによって出てくる。階段のシーン。主人公の自転車の乗り方の平坦さ(どこでも同じ)。そして、シナリオとしてもすべてが主人公にからんだこと、これは社会全体が主人公を見るという特殊状態を想定することによって初めて成功するのだが、であることでも主人公と言う自我は重く重く、観客にのしかかる。
内的な主人公のプライベートな部分と、外的なものの全体としての街、そして個々としての個人からの攻撃、それに対するプライベートな反発。それを永遠と描くことによってこの映画は一人の女性の自我のあり方を表現していったのだろう。
その表現したものの結果として、主題(?それを契機にして撮ったということで主題と表現してみた)の自己責任と言うものは消えていってしまった様に思われる。

街は主人公にとって外的なものの表象であり、その一つの端は国家と言うものに到るだろう。そしてその個々の例として人々が現れる。外的な要素すべてが主人公が敵対すべきものとして浮き上がっていく。
その手法の結果として、主人公以外の全てのキャラクターはキャラクターのためのキャラクターと化していて、生きていない。その一つの例が主人公の家の家具の少なさだろう。両親の荷物が全くない表現の中にも、この人たちは本当に記号的な意味しか持っていないということが示されていよう。母親と言う役。父親と言う役。この場合の役は、主人公に対する位置づけと言う意味であり、物語が与える役(必要とするキャラクター)ではない。

海は街と自己の境界面。この場合は自己というよりも海外(具体的にはイラクだろうが)との境界。この場合、海外は自分を肯定してくれる場所であり母性的な部分なのに対して、街は否定してくる父性的な存在だろうか。この読みはどうでもいいのだが。当然ラストが背中向いているのは意図的なのだろう。

ウィトゲンシュタイ的手法(*1)による独我論的な自我が拡大しすぎて消滅されるわけではなくて、それがストレスとして極限まで達したときに転調してしまう。これは不満がのこる部分である。
ベットの上で丸くなるところとか、ワタシハアノヒトタチヲアイシテイル(?確かそのような言葉)を打ち込んでいる姿とか、そういうものを映し出すのは確かに必要だろうが、どうも好きになれないシーン。その結果として強烈な自己が出ているにせよ、それは第三者的に表現されるものではなく、主観的に表現されるものであるべきであろう。

それらのストレス(外部から及ぼされるストレス)が発散されなければ主人公は外的なものに対する破壊として父親を殺していたか(父性的社会的に端する反発として)、挫折的な行為によって従順に日本の社会に溶け込んだのだろう。
父の死をきっかけとした物語自体の転調は逃避か決断か分からない。それはそのどちらもが大差ないからなのだろう。そんなものはどうでもいいのだ。ただ、キャッチコピーが「決断する」ってなってたのは微妙だった。

結局、このストーリーで浮いていたのは主人公の自我そのもののような気がする。キャラクターのためのキャラクターはどうも嫌い。本来ならば、主観的な世界でしかタッチできないものを第三者の目で表現し続けたがために、結果として自我が消滅することは無く、それが消極的な世界への逃避に繋がっていったのだろうか。

(*1)
自分しかこの世に存在しないのではないかと言う疑問に対して、あまりにもその自分が強すぎることにより、自分と言うものが消去されてしまうということ。詳しくはNHK出版より出ている、シリーズ哲学のエッセンス 入不二基義氏の『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』が分かりやすく、素晴らしい本だと思います。

こんなもんか?