風呂に入るor入らない。

最高の親友からの勝手にトスが着たものだと物凄い勢いでナニカを受け取って書き続けるブログ。決して悪意はありません。というのは分かってくれると思う。書きたくてうずうずしているところに俺の名前出てきたからもう我慢できないトニーtheタイガー!

お前が"死にたい"と言って無駄に過ごした今日は
昨日死んだやつが一生懸命"生きたかった"明日なんだ

という命題。まずこれに対して二つの疑問。
1.そもそも『お前の今日』と『誰かの昨日』は対比可能なのか。対比可能or対比不可能ならそれら二つに関連性などあるのか
2.そもそも『無駄に過ごした今日』というものと、『一生懸命〜な明日』といった表現に差はあるのか
1に関して。結論から言うと、それらは対比不可能であり、お互いに全く関係のないものではないのか。それが交換可能であったり、目の前に晒してみることが可能であるのであれば、簡単に想像がつく。だが、それぞれ個人の一日というものはその主体に起因し、同時に所有(厳密な意味での所有ではない。経験として蓄積された記憶というべきであろう)されるものであり、その所有(記憶)の段階において個々人のフィルターによって変質する。今日というものは常に回顧的に認識されるか、未だ来ぬ状態を想定することで観察されるであろう。と、なれば明日という概念を出すまでもなく、ある人の今日と、他の人の今日は全く違ったもの、全く違ったフィルターによって保存され、同時にそれぞれの判断はその主体においてでしか為されず、またその主体同士は不完全な意志伝達しか行えない。
そこから発生する問題としては、ある人が無駄に過ごした今日ということと無駄に過ごさなかった今日というものがあるのだろうか。それは一回しかない今日というものを考えれば二つのものは同時に存在(経験)できず、その一方を他方を経験したものが想起することしか出来ない。それは常に希望的観測になるであろう。
2に関して。
この命題は別に『お前が死にたいといって無駄に過ごした今日は、aluが誕生日に彼女に着せる冥土服をネットで探して一晩中悶々とした結果超睡眠不足でバイトに行った昨日なんだ』としても何も変わらないのではないか。なぜならば、それはある主体(お前)の経験と別の主体(やつ)の経験を対比しているからであって、それはそれぞれの主体(やつ)の状態を別の主体(お前)が想定するだけであって、そこに対して及ぼす感傷の違いはあったとしても、それぞれの状態に対する差はない。そこにある差は、主体(お前)が行う投影の差だけであって、それぞれの個々の主体の経験を否定することにはならない。つまり、後者の文章はどのような文章を入れても同じなのであり、お前が無駄に過ごした今日というものはどのようなものとでも対比可能(可能であるとするならば)であり、同時に同等なのだろう。
だが、そもそも無駄に過ごした今日なんて言葉自体が一度経過したら過ぎ去ってしまうものを計る測定方法(判断基準)としては非常になんとも曖昧なものではないか。無駄という概念が当てはめられるということはその逆に有意義という考え方が出来る今日があるのであろうが、その価値観の判断材料はその人の持っている目的意識といったところだろうか。その目的意識が欠落している状態で日々を生きていればどのような(他人からみたら充実しているように見える生活であったとしても)生活でもそれはムダなのだろう。そう考えれば、俺の人生なんてムダしかしてない。なんて言葉も簡単に書くことが出来る。と、同時に結構含蓄ありそうだね。ということで、対比することに意味はないように感じる。俺は。
で、だれも見ないページのアクセス解析つけていることについては突っ込むべきですか?w