Why is the ram always gone?

おひさしぶれです@酔っ払い
ぱいれーつおぶデトマン見てます。見てます。楽しいです。えっへん。
とりあえずここ最近超多忙な僕ちゃんが最近にゃっていたこと。
月曜日。っていつ?今日なん曜日?あ、火曜日に春休みに入って。水曜日にゴテンバに行って来た。すごく楽しかった。ハッカという店で2万えんが1000円になっていたり、3万円が2000円で狂喜乱舞した。木曜日は午後からカテキョして。金曜日は国立近代美術館に行って来た。物凄い作品ばかりあった。館内の広さも尋常じゃなかった。すごいよ。マジで。感動しまくったと言うか、精根尽き果てた。すさまじかった。見に行けるやつらは全員見ろ。って、感じ。で、帰ってきて深夜まで飲んで。土曜日は朝一に起きてイトコをバイオリンに連れて行き、夜はまた飲んで。オレは途中で行き倒れたが二人で朝まで飲んでいたらしい。すごいね。酒。うまいね。さけ。で、月曜本読みまくって。今日は特に何もしてない。酒飲みながら今映画見てるぐらい。楽しかった。もっと楽しい毎日。
ウチにある酒。「白加賀梅酒」「南高梅梅酒」」「飛露喜原酒」「飛露喜無濾過原酒」「備前ナンタラ龍神」「天狗舞」「レツ」「まんさくの花」あと、「ボンベイサファイア」とか、「ヒビキ17年」とか。すごいクオリティーになっております。うちにくるやつは期待して来い。
最近流行の『お洒落』とか、『大人』という概念。
ロッポンギヒルズのアギトって店で買い物をした。この店はひるずの中で家具とか売っている店なわけだが、個人的にロッポンギを象徴している店だと思っている。すごく『お洒落』で『洗練された』家具が売っているわけだ。とてもじゃないがその家具に囲まれて生活しても楽しそうではない。そこに私が見るのは現代の孤独が収縮された冷たい家具たちだ。
『お洒落』という概念は泥臭いと言う概念の対称であるだろう。田舎臭いとか、芋っぽいという概念がどのようなことから発生するかと言うと、それは実用に重きを置き、デザインというものを考慮に入れていない。当然、それ以外の概念もある。芋っぽいと言う概念は良くコーディネイトに対して用いられるが、その時には組み合わせの下手さ、ある種の流行を取り損ねた感覚をもって言われることがある。それはそれとして。田舎臭さと言うのは、身近なものをあらゆることに使う、ある種の自給自足性に依存している。そこから離れると言うことはデザインと言うものに対してある程度以上のペイ、支払いを行い、場合によっては機能性の低いものを購入すると言うことだろう。
洗練され、デザインが重視されると言うことは機能性からはなれる。当然、その両立するものが実用的でおしゃれな家具(別に家具に限らず服とかあらゆるものにおいて)と言われるわけだが、そういったものには泥臭さがある。その泥臭さとは実用だ。実用と言うものが軽視され、形骸化したおしゃれな物がもてはやされるとはどういうことだろう。
アギトという店で買い物をし、配っている小冊子を貰った。その店で買い物をしている時点でこのようなことを書く資格はないといわれるかもしれないがそんなことは知ったこっちゃない。だって欲しかったのが40パーオフだったんだもの。そこで貰った小冊子。oneself。表紙をめくるとそこにはアストロマチンのV8エンジンのスポーツカー。1500万円。まぁ、そんな感じの人々を対称にしているようだ。そしていろいろな家具が載っており(当然高い。)、そして終にはおもてなしの方法まで紹介されている。「目上のゲストには黒+紫でオリエンタルモダンスタイルに」。「気のおけない友達は、ナチュラルカラーでスマートに!」。意味不明だ。オリエンタルモダンってなんなんだろうね?これ読んでる人がその意味を先に知っているとは思えない。そこに乗っている一枚の写真を見て「あぁ、こういうのがオリエンタルモダンね。なるほど。俺もやってみよう」なんて感じに知るだけじゃないだろうか。なちゅらるからーでスマートに。というのも分からない。だって、ナチュラルカラーってなんだろうって感じじゃないですか。スマートってどういう概念ですか?どういう雰囲気ですか?でも、なんとなく分かってしまう。なんとなく分かる気がする。それを分からないと言うことはダサイことだ。という雰囲気。これが怖い。まず第一にその違和感。
そして二つ目。こっちの方が重要。家具のホームセンターが紹介されており、そこの文章。「一言で言うと「おしゃれなホームセンター」。子供を預けてゆっくり買い物が出来るサービスや、(略」おしゃれなホームセンターには子供は必要ないらしい。家具と言うものは家の中に置かれるものであって、例えば、父親の書斎といった空間であったも、子供に関係のないものはない。それは例えば、立ち入ることを禁止された父親の書斎。そのドアが開いているときに見える風景。と言うものも子供にはある種の憧憬などの多分の影響を与える。そのような家具を選ぶ際に子供を置いていくと言う行為はoneselfという意味を取り違えてはいないか。家具と言うものは確かに、個人が選ぶことが出来るが、それはその家に住むものすべてに関係する。それは建築と同じだ。建物と同じで空間を作り上げるものだ。それなのに子供を置いてそれを選ぶと言う行為は、確かに両親で選ぶという選択ではあろうが、よっぽど幼い子供でない限り、その社会的な家を構築するという行為に立ち合わせるべきでないか。それが子供を一人の人間として扱うということであり、同時に次の世代に家をつなげていく行為であると私は考える。それなのに、子供を置いてそのようなものを買いに行くと言うことはどういうことか。消費が家というものを基本単位ですら行えなくなったと言うことではないか。個人主義と個人至上主義は違う。確かに、一人の時間を持つということは重要で、その時間に自己研磨し、上を目指すと言う行為は『大人』の行為だろう。だが、それと共有すべきものまで一人で行うということは全く別だ。共有すべきものを共有できなくなり、より一層独りになっていく。機能性の無意味化としてお洒落があり、それが家族と言うものまで排除することに至るのであれば私は『お洒落』を肯定できない。
そもそも『お洒落』というものがある意味でモダンアートと結びついている状態ではとてもじゃないが、温かみは期待できないだろう。辛くて暗いものだ。黒い存在。個々人の裏に響く黒い影。それを暴き出すことが現代の課題であった。それはある時までは社会の黒い影であったが、個人の黒い影になってしまった。個人はその責任を負い辛い時間が始まった。その時間を生きている。当然それまでも辛いことはあった。だが、時代自体が個人に帰し、その責任を取らされる段階においてはその辛さは個々人のものを何かに投影するような段階になった。その闇を突きつけられている感覚がしないか。あの真っ黒く平坦な机を見て。キラキラと反射する壁を見て。あの、シャープでするどいデザインを見て。