コバヤシヒデオとキャンキャン

ちょっとこの間の日曜日にあった事から思いついたこと。
俺の中でアホでユウメイ(別にユウレイでもいいぐらいだ)な従姉妹の買い物に付き合った。本人はいなかったんだけど俺のオバサンが神戸まで来てなんかこう。買っていくわけだ。服を。ブーツを。帽子を。
そのときに店にキャンキャンやらなんだ。ほか。ノンノ?はなかった気がする。こう、ケばいのばっか置いてあるのね。その店に。それで何月号のえびちゃんが着てたのとか言いながら買って行くわけ。
まぁ、最近は色々凝ってる俺からしたら理解できない世界なのはいいとして。当然馬鹿にしながら、ボケーと付き合っていたらふと大変なことに気が付いた。

別にこの行為自体が馬鹿なら俺馬鹿じゃん。

かいものにつきあってるときに加藤周一だか、吉本リューメイだか(多分加藤周一)が書いた文章に「僕等はすべてを小林秀雄にならった。」という一節があった。気がする。
モーツァルトについて小林が書いていたらそれを探しに行き、よく分からないままに聞いたと。
何も変わらないじゃんこれ。
消費の動機がコントロールされているかだけで結局素直な行動なんだろう。
俺だってGLAYのTAKUROビートルズ聴いてたからそれ聞くわけだし、hideちゃんのギターなんかほしいと思っちゃうわけだ。
ただなんか違うよな。俺じゃなくて、コバヤシヒデオね。何が違うんだろうね。どう書いたら良いのでしょう。

あ。11月号のショーノヨリコさんの評論は凄く勉強になりますタ。感覚的理論(変な造語。頭の中で文字にならないような違和感とでも)を文字にさせるとあの人以上の人はいないんじゃないか。

めも。
消費をしない方法。モノにヒトを込める。モノの中にヒトが見えること