朝から何もしていない。疲れている。ぜるだのDSのやつしかしていない。シナリオは少し進んだ。朝買ってきたまくどなるど以外食事をしていない。そのようなものを食事だと呼べるなら。明日は栄養不足と味覚がおかしくなっているだろうか。
ぼけーっとたいむマシンを眺めている。
なんか違う。ぶっちゃけ面白くない。
そこにあるのが、楽しそうな空想の世界、こうなったら素敵だという輝くではなく、精精この程度のことしかないだろうという限界に対する諦めが見えるからか。
当然、えすえふが楽しいことばかり書いているわけではない。だが、その、展望には望まれることと望まれないことがある。いや、明るいか、暗いか。未来を見ているか、見ていないか。未来を期待している甲斐ないのか。
科学はあるところで間違ってしまったのか。
これが書かれた当時は「画期的」な予兆が感じられたのだろう。劇的に生活環境や社会形態が変化して。
だが、今は、第二次大戦後はどうも違うようだ。
昨日、あうしゅびっつの番組を見ていたが、どうもこの問題と絡んでいるようだ。あれは人間性とかそういう問題で。こっちは技術ではなく、なんだ。表現されることに関してか。
時間を扱って、未来にぷりみてぃぶな世界が広がっているという考え方は、東洋の無常観と似ているが、どうも異なるようだ。何もなくなるわけではなく、そこに同じようなものができると言うところだろうか。別に無常ではないのだ。有事が脈々と続いている。無常は、それすらないという感覚であろう。
ぷりみてぃぶな世界は自己反省的に提示されるに過ぎない。文化を抽象化して、現代社会になるある構図を炙りだすだけだ。別にそのことに本質的な意味を見出しては、いない。
それともあれか。映像的な技術によるキレイさであったり新しさに飽きただけか。シナリオの特異性もないし。