拙文

なんかおもうこと。
すげー巧いなーとか思った写真がクダラナイ理由で消されなければならなくなったことが非常にむかついたので。
度々紹介しているDoubletさんの日記で。
http://d.hatena.ne.jp/doublet/
既に画像は消されているが、6月10日付けの日記に姪っ子さんの写真が二枚張られていた。姪っ子さんが逆立した瞬間を撮ったもの。
空気感と言うか、青色がかったシャープな色合いで。キリッとしているのだけれども、優しい感じと言うか、理系じゃない感じの絵で。たぶん、緑色の発色の仕方が良かったんだろと思うんだが。それでいて細部までぶれてないところとか。記憶で書いているので曖昧だけれども。
以前に撮られていた横顔なんかも、凄く静かな感じで巧いなーと思っていた。人をモノとして撮っていて、下手な感情の移入がないというか。こう撮りたいではなく、これがあるから撮るみたいな姿勢が伝わってくるというか。勝手な解釈なので違ったらすみません。睫とか綺麗に写るのはこだわりのレンズの性能なんだろうか。
6月8日の牛の写真や、走ってる学生さんや、霧の立ち込めた後姿とか、すげーうまいなぁと思うのだが。
それが、ようじょ好きな人がいらっしゃって画像回収された報告によって消してしまった。それは消すよ。気持ちが悪いから。
だが、そうやって、ある人の行動で、俺がスゲーと思ったものが追いとけなくなるようなのは非常に嫌だなぁと思ったり。そんなのお前の勝手だろって。そらそうだ。俺の勝手だから俺が勝手に書いている。
一枚の写真から性的興奮を得るとかは本当にお前の勝手なんだけど。例えば綺麗な石の写真見ながらますたーべーしょんするような構図は十分に考えられるし、確かにある種の妖艶さはあるが、それが人に向く場合とモノに向く場合で違うようだ。ある意味で写真になった時点で人とモノの差は非常に曖昧だけれども、やはり写したものとしてその人が現存しているのがまずいのだろう。その子に対してある種の性的な興奮を向けさせた、というまずさが出てくる。それにやはり何か気持ち悪い。呪術的なものだろうか。『誰かのことを考える』ということだけである種の力とかエフェクトを感じるのは根っこにそういう発想があるようだ。例えば、『静ちゃんがみてるからがんばろう』なんて構文は物語の中ではありえても、現実的に考えたらキモチ悪い。恋とストーカーは行動の違いしかないのではないか。
けどやっぱりそれと、巧い写真とは違うっていうところにもって行きたいんだけれども。全く頭がそちらに向かない。被写体によって写真が考慮されなければならないのって何とも。といいながらも、たしかにあらーキーの写真をポスターに使って良いかと聞かれたら時と場合によるからなぁ。
やはりネット上では無理か。パスワード付きとかそういったことでは意味がない。それこそようじょ好きがあつまるサーバーと何の代わりもない。
ネット上で人の写真とか上げられるようなネットになればいいのに。ありえないか。
そこのありえなさは、ネットの悪意とかそういった問題ではなくて、人が誰かに顔を見られたくないとか、写真を見られたくないといったほうの問題の気がする。不特定多数の人に見られたくないという無意識とでも言うか。それを考えると役者と言うものはとてもしんどい仕事だろう。
人を撮れなくなっていく時代がきそうだな。既にして人を取るのはかなり難しいのだけれども。これってスゲー問題じゃい?いや、人を取れてもそれを人に見せれないか。別に周りの人に見せたら良いじゃない。と言うかもしれないが、こう言い換えたら言い。人を撮った作品が残せない。こういうとき作品と言う言葉は便利。被写体が役者以外の人は作品にならなくなる。こういったら問題が見えるかなぁ
なんだか変なほうにばかり頭が散って巧く文章かけなかったけれども、要約するとマクロ写真家(?)であるDoubletさんは普通の写真も巧い。
という話をしたかっただけのようです。