暇つぶしにどうぞ。

最近書いたものでも上げてみようと思った。作庭記という文章に関して好き放題書くレポート。こんなこと考えてます。卒論もだいたいこんなこと書いていた気がする。とりあえずインシの哲学史の勉強を放棄して、哲学家についての文章は仕上げた。思っていたより試験が一日早くてちょっと焦っている。

「石をたてん事、まづ大旨をこゝろふべき也。」
作庭記の冒頭の一文である。この一文を巡ることにする。
あらゆる本にとって、書き出しの一文は特異な場面である。それは舞台や演劇においてもそうであるように、幕が開けるという行為を境に始まる非日常と、日常とがぎりぎりせめぎ合う部分である。この部分で失敗してしまえば、観客は非日常に取り込まれることなく、日常のままに舞台と接することになる。演劇の起源を神との交流にとるのであれば、明らかな失敗であろう。これを文章で見るのであれば、書き出しによってその本に対して抱く景色が決定するだろう。つまらなさそう、であったり、おもしろそう、であろう。底が知れる、とはこのことである。底を知るのは覗き込んだ後ではなく、側から見たときの一瞬の気配から現れるものである。到底知ることができない底もあれば、期待はずれの浅い底もある。そのため、冒頭の一文はあとがきなどよりもずっとその本全体を示すことになる。書き終えた後の感想めいた記述よりもずっと生で、表現と意図とがせめぎ合っているリアルな場の痕跡が刻まれている。もちろん一文で終えることなく、一段落、一頁、一章と、区分することもできるだろうが、そこまで読むのであれば、それはすでにその本に入り込んでいる。初めの文章はその本が成立するかどうかの特別なシンボルである。
文章の内容について考えてみる。「石をたてん事」と、あるがこれを注釈では「石組をする事、庭作り」と訳している。(庭が作るものなのか、造るものなのか、造園という言葉を省みても造るものである気はするが、最近の庭は作ることが可能なものだろうか。だが、ふと考えると本書のタイトルは作庭記である。作ると、造るが当時から現在と同じようなニュアンスで異なっており、造園という言葉と作庭という言葉が共存していたのであれば、作庭と造園の間に差をおさえたうえで作庭記なのだろうか。確かにいまでも造園と言うと庭に限られたことではない。作庭というと庭に限られたことであろうか。造園という言葉には西洋のニュアンスが含まれるように思われる。)「石をたてん事」を「庭作り」と訳すことは、石を立てるという行為をさして、その先の完成品を示していると解釈したのである。「石をたてん事」という言葉を「庭作り」の隠喩であると捉えた結果である。それはひとつの解釈として正しいだろう。そして、そのような常識が一般的である文脈ではそれ以外の意味は持ち得ない。だが、同時にこの文章の中では石の立て方を具体的に示すこともある。つまり、「石をたてる」という言葉はある文脈では「庭を造る」こととして使われ、また別の文脈では「石をたてる」という行為そのものとして用いられる。このようなことは作庭記以外の文章でも普通に行われていることである。だが、同時にこれは面白いことを語っている。「石をたてる」ことが「石をたてる」ことだけでなく「庭を造る」ことを示しているように、作庭記の中ではしばしば、具体的なことを語ることによって抽象的なことを示し、また逆に抽象的なことを語ることによって具体的なことを示している。これはただ表面的な言葉を読むだけと、文脈を捉える差とも捉えられるだろう。初めの一文においては「まづ大旨をこゝろふべき也。」という部分がこれにあたる。物を作るというのに石の選別や具体的な物質から始まるのではなく、「大旨をこゝろふべき」というのである。注にあるように「大旨」を「概要」と訳してしまっても良いだろう。だが、この表現では大きなとり逃しをしてしまう。「概要」と訳してしまうと、庭の具体的な方向性を定めるために現実的に有効な手段としてまず計画を立てる、そういった雰囲気になってしまう。確かにその一面もあるであろうが、そのような計画と言うにはこの後に述べられる3条は弱すぎるだろう。「大旨」はもっとあやふやなものである。これは作庭における真髄とも呼べるものである。だが、その極みを得た後に作り出すことなどは不可能である。その感覚は庭を作ることを通してでしか手に入れ得ない。「大旨」は、「作ることによって掴んでいくであろうある種の感覚を、敢えて言葉にして語りだしたなら」という言葉が前に包まれている、示すものをもっていない空っぽの言葉である。「石をたてん事」は言うなれば机上の空論のような言葉からはじまり、実際にその言葉に至る作業なのである。
また同じように、しばしば挿入される「よろしく」や、「よくよく」、「べし」という言葉の中には、具体的な庭の構造としての「よし」、「あし」が含まれたうえでの言葉である。だが、それは具体的に書かれたときには現実的な数字と方法論にしかならない。逆にそれらの数字と方法論の中には抽象的な「よし」、「あし」が含まれている。ある表現による具体性と抽象性とは言葉のままの意味を持つことなく、表裏になって入れ替わっていく。具体的な石の立て方の裏にはその立て方によって生じる美が含まれている。美しいと感じる感性が含まれている。禁忌を語る中には具体的なその醜さが含まれている。醜いと感じる感性が含まれている。
以上で終わる。