〜のルール

ぼんやりと一人眠れない夜。よくある話。懐かしい話。健康な証拠。イヤホンからはクイーンのベスト。目の前にはトーマの心臓とインスタントコーヒー。ぼんやりと眺める。そこにはこう書いてある。
喪中につき新年の御挨拶失礼させていただきます
今年四月、父が五十五才にて病歿いたさいました。
生前、御厚誼御厚情を賜りました方々には心から御礼申し上げます。
尚、時節柄一層の御自愛の程お祈り申し上げます。
定型文の選択によって構成される文章。著作権は誰が持っているのかしら。このプラスチックのような硬質な文字群は長い年月を経て洗練されて、変化したものなのだろう。意外と、このプラスチックのような口上と、そこにこめられたたった一つの事実という構造は、非日常を伝えるのにふさわしい言葉なのだろう。そうでなければ、日常の言葉では、どう伝えて良いかわからないことなのでしょう。おいっ!お前、急になに言ってんだ。みたいな。というか、どういってもしっくりこないんだよな。事実から離れて明るすぎる話し手がいるか、事実に流されてぐずぐずになっている話し手がいるかの二通りで。
となると、祝詞や祈りといった言葉も、非日常をいかに日常的の中に受け止めるかといった言葉であり、その場のために用意された、それ相応に、検証しようがないけれども恐らくそこそこ、ふさわしい言葉のだろう。あるものすごいこと、すさまじき事が起こったときにそれと接するためのクッションであり、直接それに触れないことで、非日常が日常に侵食することを防ぐ、というか、語りようのない非日常を語らないままにゴロンと置いておくために据える口上とでも言ったほうが良いか。非日常が日常を侵食するなどといった表現はSF過ぎる。
だから、「ご愁傷様です」という言葉はさらさらと流れていく。まるで無味乾燥で全然こっちにまで伝わってこない、そこで関係性を絶つ、エンガチョしようとしているように響く。それでかまわないのだ。ダイレクトに非日常に触れた人間に対して、日常の人間がそのような(ある種神がかりの)人間の内面など想定の仕様がない。それは非日常に対する怖れであり、突然の非日常と接触した人間がとりあえずそれを言っておけば非日常に対して礼を逸しない方法として用意されたシステムである。
非日常なんて書き方して、死を妙に柳田的なものにくっつけようとしてんじゃないのか。って、感じだがまさしくそうなのでなんともいえない。よくわからないものが非日常でいんじゃないの。なんて思ってしまう。ある意味で地震もそうなんだろう。そのときは後ろに自然とか持ってきたらいいのだろうか。ある経験の後ろにそのように何かが想定される構造、よくわからない経験をしたときの、ずれっぷりのようなもの。それを非日常としてみた。

ということでまた、どうでもいいことを垂れ流してみたただのストレス解消。生きてますよ。毎日死にたいとつぶやきながら、絶対にそんなことできないんだよな。なんて、いろんな方法考えて電車の中でニマニマして不審な目で見られたりしながら。と、いうほどそんなことに熱心でもない。最近一番頭の中を支配していることは、何だろう。あ、いややっぱりそこらへんだわ。毎晩親父と爺ちゃんのことを考えてます。わけわからないぐらい苦しくって、きっと恐らく最高に楽しいのです。ふとわれに返ると面白い風景が目の前に広がっています。
いろいろと話したい人が何人かいるんだけど。連絡取れなかったり、会いに行くのめんどくさかったり。もう会えなかったり。