くたばりぞこない

なんか指が寂しいので垂れ流しで書いてみる。例によって例の如く時間かけて読む価値があるかどうかは価値と言うものがよく割らない俺には良く分からない。俺が生きているということをネット越しに発信する最も最適な方法、それが訳の分からない文章を訳の分からないように、自分の中にかくれている訳をオブラートに紛れ込ませて、むちゃくちゃな文章と途切れまくりの文脈。自分のフォーマットでしかアクセスできない感覚や感触。をぐっちゃぐっちゃと装飾の中に押し込めて、やあ、ひさしぶりみんな。という作業。テンション的に読むよりも書く状態なのだが、もう本当に自分の中空っぽで、発酵通り越して腐っていった思考ばかり散見されて酷い一年だったな、とか何回書いても全く意味を形成しようとしない言葉たち。を蹴り飛ばして、また活動を再会しよう。4月はなんともしんどい月になったね。人間関係やめて隠居する素晴らしさばかり身にしみる今日この頃。新しい人間にあって楽しかったことなんて数えるほどしかなかったぞ。数えるほどの体験のためにいろんな人に会おう。というモチベーションで生きてるわけだが。ゴミ屑の海でキラキラひかるまがい物のダイヤモンド探すような生き方。それってまるで有人惑星探す宇宙旅行みたいだね。宇宙からロマンが失われてどれくらい立っただろうか。いや、未だに宇宙だけはロマンを保ち続けているのに、ロマンなんて言葉が廃れて胡散臭くて、青臭いものはみんなふたしちまえ。青臭いのはやっぱり駄目なんだよ。なんて、青臭かった人たちが言うようになって。気がついたら俺も言うようになって。華麗臭振りまきながら腐っていくんだろう。
そういえば、ついったーというものが流行って久しいらしい。知ってる?ぶーやん。これがにほんno21世紀だよ?来てるよ未来。つか、アメリカだとあいぱっどもう売ってるよな。それで、そんな世界の先端に2ヶ月くらい前に流行に乗ろうとアカウントとろうとして、失敗して、失敗とか意味わからねぇ。とおもって挫折して、俺についったることも出来ないのか。こうやってどんどん世の主流から外れていく時代遅れのXPみたいなニンゲンなのか。などと呟きながら、こう、ついったーって文章から遂に言葉すら失われて、文脈だけになったのだな。などと思うのだ。最小の文字数の中で、前提とする認識や考え方などを示すことなく、文脈を読む、意味を深読みすること前提として呟く。例えば、後何分でつくよ。とか言われて。その後に電話がかかってきた場所がらぶホテルのそばだったりすると、こいつやってたのかよ。とか思ってしまうわけだ。こういうことの繰り返し。なんじゃないの?具体的に読みたくても変な画面になって読めないから俺には分からない世界なんだけどね!言ってみれば文章の背骨みたいなもの。言葉が脊椎動物なら。じゃあ、詩は何かって言うとおそらく魂とかその動物自体に帰さない雰囲気とかそういった部分で。なんていうとロマン過ぎるかもしれないから、俺は肋骨だと思う。詩は肋骨。ついったーは背骨。小説は内臓〜贅肉。脂。皮下脂肪。血液は言葉それ自体。表記されるもの。発音されるもの。そのどちらも。色々入り混じって巡りまくる。意味なんてものは言葉の何処にもいない。それは言葉を使う、読む人が見出せば言い構造。項目。行程。と、いうことで。ついったーは文章を言文一致に近づける作業。言葉を奪い取る作業だって話。だけど、おれ、ついったーのこと何も知らないけどな。多分根本的にネットで情報が流通することに何の興味もない俺が書いたことなんて物凄く見当はずれなことなんだ。だってついったーやってないもん。べつにやりたいわけじゃないよ?やりたいけど。やらせてくれないならしょうがないじゃないか!ついったーがわるいんだついったーが。どうするんだよ。俺みたいについったーーも出来ない人間は災害対策からも取り残されて、も、そんなに問題じゃないか。
相変わらず変な体調。少しはましになったかな。ようやくからだが春になりました。ってか