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OK。OK。よし。全部認めよう。
俺は毎日。毎晩。強烈な自殺願望に襲われているし、その自殺願望を持て余している。
そうだな。
これはちょっと昔の言い方をするならノイローゼって所だ。今風の言い方をするなら鬱病なのかもしれない。
けど、俺は別に無気力感に囚われたりしているわけじゃないし、どちらかというと積極的自殺願望に取り付かれている。
そう。積極的なものだ。
手首を切る事。首を吊る事。高層ビルから飛び降りる事。電車のライトの前に飛び込むこと。高速を走る自動車から転げ落ちる事。包丁を自分の左胸の肋骨の間に差し入れる事。
そういったものは俺の中で激しい衝動を伴って反芻される。
それは一種の麻薬のようなものだ。
自分が死ぬ瞬間は一種英雄的行動に思われる。実際にはそれがただの逃避行為であったとしてもだ。
そしてその死の瞬間の一瞬の甘美を求めて俺の頭は自殺という一つの解答を反芻する。
その瞬間は俺にとってどのような意味を持って到達するのか。
社会的な成功を収め閑静な住宅地に家を持ち、事業を息子に譲り不自由のない隠居生活を送った後に家族に見守られた中でゆっくりと死ぬ。
毎日を近所の公園で過ごし、商店街から出るゴミをあさって日々を送る。ある冬の日、俺は冷たくなって死んでいる。
糞な上司の下について糞な仕事を体が壊れるまでやり、ある日おもむろに心筋梗塞でもがき苦しんで死ぬ。
朝から晩までセックスを繰り返した挙句、その相手とドラッグのやりすぎでイキ狂いながら死ぬ。
精神病院に叩き込まれて、一般的な現実を知覚する事ないまま白い壁を眺めて死ぬ。
戦争に狩り出されて、何の意味もなく、何の異議もなく、何の意思もなく殺される。
海でクラゲに足を刺されて脚をつってそのままゆっくりと溺れ死ぬ。
山で遭難して誰にも知られずに白骨化する。
夜歩いていると何の訳もなく殺される。
ビルから飛び降りて死ぬ。
原爆で消滅する。
その死のなんと甘美なことか。
全ての死には物語がない。その物語のない死を受け入れる時に救いがある。
それはとても救いと呼べるようなものではないが、少なくとも俺には魅力的な姿をしている。
俺は死に何かを期待しているのか?
いや、俺は死には何も期待していない。期待している事といえばむしろ、もっと最悪になれることだ。
俺は死ぬことで自分が今以下の存在になれると信じている。
それだけが死に求める事だ。
死ぬことは最悪だ。そう。それが俺の望みだ。
死ぬことじゃない。最悪が俺の望みだ。
俺は世界中の人間から蔑まれ、罵倒され、恥辱され、辱められるような存在になるべきだ。
それでしか俺はここはに生きていられない。