絵画

絵。と、言うものはなんとも難しいものだ。
こういってしまうと何だが、絵画はよく分からない。
しかし、良く分からないといって終わってしまっては本当にそこで終わりなので何とか自分で何とかできるレベル(世界)に持ってきて話をしてみようと思う。
それが間違えであっても、正しくても関係ない。という、一種の傲慢の元に。
今日、兵庫県立美術館ギュスターヴ・モロー展に行ってきた。
そこには数多くの神話をモチーフとした作品が並んでいた。
覚えているものをあげるなら、ヘラクレスレダにヘシオドスといったところだろうか。
その中でも私の目を引いた一枚はサロメを描いた連作のうちの一枚。
『出現』と名打たれたものだった。
有名な一枚の絵画だ。私もそれを知っていて、一生のうちに見てみたいものの一つだった。
それに偶然に出会った。
『出現』が日本に来て、展示されていることとは知らずにモロー展に行っていた私には本当に偶然だったのだ。
それはこのような絵だ。
サロメが指を差す先に首を切られたヨハネの首が光輪を帯びながら浮いているのだ。
そして背後には白い線で浮き彫りにされたように異教徒(キリスト教ではない)のレリーフが彫られた建築物が広がっている。
この絵は多くのことを考えさせた。
たとえば、この構図ではまるでサロメがただしい、まるでサロメがキリストのようだ。サロメはなんなのか?この、悪女(?)として描かれつつも、これほどの親愛を感じる存在は何であるのか?彼女の正義はなにか?むしろヨハネのその驚いたような表情、おびえたような表情は何を意味するのか?それなのに、なぜヨハネには光が注いでいるのか?それともサロメはむしろ天使の象徴なのか?
しかし、本当はそのような言葉がどうでも良くなること。
絵の前に対座して、その絵をじっと見ることによってただ、ぼんやりとその世界に飲み込まれ、深い意味なんて持たないこと。持ち得ないこと。
言葉を得る以前に感じる感覚。それをどうやって言葉に落とすか。
それが一番の問題だ。