memo

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例を使うことによって、善と悪と無差別なものの先入見が一致しないことが示されたので、議論されている主題に懐疑主義者たちの言っていることを取り上げる必要があるだろう。

69
さてさて、本性上善いものがなにかあり、本性上悪いものが何かあるとするならば、このものはすべての人に共通なはずであり、誰にとっても善いか悪いはずだ。
火というものが本性上暖めるものだとするならば、すべての人を暖めるのであり、ある人を暖めほかを凍えさせるということはない
雪というものが本性上冷やすものであるとするならば、あるものを冷やすけれども、別のものを暖めるということはなくて、すべての人を等しく冷やす。
それと同じように本性上善であるものは誰にとっても善であるべきであって、ある人にとって善であるのに、別の人にとって善ではないということはない。

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プラトンも同様の事例を元にして議論した
暖めるということが熱さを他のものから区別する特徴である
冷やすということが冷たさを他のものから区別する特徴である
それと同様に善を為すということは、善を他のものから区別する特徴である
しかるに、善なるものは神である
善を成すということは神を他のものから区別する特徴である。

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本性上善いものがあるとするならば、このものはすべての人に関して善い
本性上悪いものがあるとするならば、このものはすべての人に関して悪い
が、私たちがこれから論証するように、いかなるものも万人に共通な仕方で善かったり、悪かったりするわけではない。
そのため、本性上善いものも悪いものも存在しない

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ある人にとってよいと考えられているものすべてが本当に善いとして叙述される(語られる)か、そうしたものがすべて本質上善いものとして語られないかのどちらかである。
そして、すべてのものが本当に善いものとして語られる訳ではない。
なぜかというと、もし誰かによって善いと考えられているものすべてを我々が善いと呼ぶとすれば、
同じ物がAさんにとって悪いと考えられ、Bさんによって善いと考えられる。
そしてAとBとも違う別の人によって無差別と考えられるのだから。
私たちは同じものが同時に善くて悪くて無差別であると認めることになる。

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たとえば、エピクロスに言わせれば快楽はよいものである。
他方、「快を感じるくらいなら狂ったほうがましだ」と言った人には悪である。
そしてストア派に言わせれば、快楽は無差別なものであり、好まれるものではない。
クレアントスは快楽は化粧が自然に適っているわけではないのと同じように人生において価値はない
アルケデモスは快楽は腋毛のように自然ではあるが、価値を持っているわけではない
パナエティモスは快楽のうちあるものは自然に適っているけれども、別のものは自然に適ってはいない。

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つまり、もしある人にとって善と思えるものすべてが絶対的に善であるとするならば、快楽はエピクロスにとっては善と思われ、犬儒派のある人にとっては悪と思われ、ストア派については無差別なものと思われるのであるから、
快楽は同時に善であり、悪であり、無差別なものであることになるだろう。
しかるに、おなじものが本性上反対のものであることはありえない。
それゆえ、誰かにとって善あるいは悪と思われるものすべてが、善あるいは悪と呼ばれるべきではない。