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人は疲労すると物凄い躁と、激しく鬱の間をいったりきたりするように思う。行動する必要があるときは躁で、家で一人だと憂鬱。なんて自分のことを他人に拡大するという勝手をしてみた。別にそんなことはない。そういうこともあるというだけで少なくとも今は疲労しているだけであり、決して打つなんかじゃない。そういう意味では常に打つではない。打つということがどのような状態、肉体的、すぴりちゅあり的に、であるかがわからない以上、打つじゃないともいえない。だからといって、家でくつろいでいるときの脳波なんて調べることなどできないし、そもそも脳波なんて本当にあるのかどうかわからない。お前等全員騙されているよ。頭の中にはぐるぐると渦を巻いたちょとすが20個ぐらいつまっていて、その間をちょこれーとがだらだらと流れているのだ。そんなわけがない。そんなものじゃなくて、動詞も名詞も形容詞も存在しないような何かが頭の中にあって、観測されるとそれは脳みそとか脳波にみえるのだ。だったら別に脳波だっても良いのだ。その通り。脳波は一つのあれだな。定義だな。それらしい。ということが科学的。べつに世界は亀の甲羅に乗っているわけじゃないし、同時に亀の甲羅に乗っているのだ。だからといって、世界が何もわからないわけではなくて、それは自分が決める。何を信じるか。そして、それでは何もわからないということであるのならば、知るということがその人にとって何の意味もなくなってしまうだろう。知ることはできないかもしれないが、知ろうという無限の無駄な無為な無作為な行為を繰り返し続けることはでき、同時にそのことぐらい、それだけが、せいぜい知るという行為に漸近していくことじゃないのか。本当に知ると言うことを諦めてしまっているのならば、本当の意味でそれを放棄するならば、その人は目の前の地面を信じることができなくなり、一歩も動けなくなり、何の価値も感じられないんだろう。なら、そこにぷらぐまてぃずむ的な実用主義を導入したらどうだろう?ついでに、話のレベルを相当、卑近なレベルまで引き上げてしまおう。何もワカラナイと言うことを肯定すること。つまり、彼自身の利益、彼が利益だと判断できるものを無限に追い続けることだとしたら?
だったら好きにしたらいい。そして彼の、彼からのコメントは全て私を彼の利益の基に動かそうとするものになるのだろう。彼の利益がなにであるかは彼自身でしかワカラナイ(それは凄くぷらいべーとなもの)であろうし。ということで、それに従う必要性は微塵も感じないどころか、それに対して自己を守ろうとする行為を行うことが肯定できてしまうようにも思えるとかどうでもいい。