祈るでもなくただ願って

ナニこのかっこいいタイトル?誰かばらーどのタイトルに使いたかったら使って良いよ。その代わり聞かせろ。HARDロックバージョンを。
つーことで総括。
ここ二日連続で飲んでいた。こうかくとこここにちわとか言いだしそうだけどそういうわけじゃない。昨日はK君と。今日はバイト先の人々(サムワン)と。なんだか今までの人生でからんだことのない人種ばかりでやりにくかったが、どうやら変な人が多いみたいです。ようわからん。まぁ、うん。そんな感じ。
最近のオレは切れ味が鈍ったらしい。別段気にはしない。センスがなくなったわけではなく、そういう言葉を普段使わないと回転は落ちる。当然の結果。だからといって、やたらめったらと切っていたらこっちじゃうまくいかないんだ。これぞ生きていく術。なんて文章も昔だったらどう書いただろか。書かなかったに決まってる。そのときの自分を肯定するような文章など書けるようになったのが素晴らしいことだ。いや、クダラナイコトだ。だからそういうのどうでもいいんだって。まさにインディファレント。書けようが書けまいが、どちらが善いとかいう上下意識なんて対比できないとできないわけで、今それを書けるなら二つ書いて書き比べられるけど、書けないんだから対比なんてできないし、それができないなら上下があるなんて思うだけ無駄で、無駄と言うか、お前の自己満足な価値観でしかなく、そのクダラナイ、判断基準として極めて論理性に欠ける部分でナンカの効率が下がるならそんなこと考えなきゃいいんだ。別に何の効率も下がりゃしないが。あの頃に書けた文章が今は書けないなんて当たり前で、文字だろうとなんだろうとイチゴウイチエ。そのフレーズは同じように使っても全く同じ効果、意味、雰囲気なんて持てない。句読点一つですべてが代わって、挿入される部位ですべてが変わる。なんて卑猥。別に文章だけじゃなくて。そうなると、昔のあの文章を書けたオレが善かったというのは、過去の自分を肯定してやる程度のことであって、別に今とは直接のつながりがない。お。ここはとても変な理論に見えるだろうが個人的にシンコウしている感覚が関係しているので普通に言い換えると、こうだろうか。過去の自分を肯定してやることであって、たとえ今の自分がその時以下だと思えるようであったとしても、そのときに帰ろうとする行動には直接は結びつかない。なぜならば、そのようにその時(過去)を肯定するのは、常にその時(過去)から切り離され対象化された時間(現在とか今とか)だけであって、それ以上のものはない。では、その文章をかけたという自分に対する羨望、回顧、帰還願望は何から出るのだろうか。そこには二つの理由が考えられる。一つはその文章自体(ある対象のある状態)が目的である場合。もう一つはその文章を書けること(自分の状態)が目的である場合。文章(対象物、モノ)が目的である場合は、それが失われてしまったか、これ以後発生し得ないことに対する忌諱(略)。後者が理由の場合は、
とか書いてて、大筋できたんだが書くのめんどくさくなったからまた明日。ナニ書いてんだろうなぁ〜オレ。時間ロンと文章に対する考案と自己意識と後悔とかどんどんまざってて何も書けてませんね。とか、まぁ、どうでもいいんだ。馬鹿馬鹿しい。
なんだかアチコチでそれなんてエロゲ?とか発言したくなるような記事ばかりあってお前等熱に頭やられたのか?とか、聞きたくなるのはただの嫉妬。その行為に対するシットではなく、おいしいネタウマーという嫉妬。これ重要。