LiVing DEADTEHDEHDTE

生きているときにその一刹那ごとに人が行っていることは何だろうか。
まぁ、多分、人はいろいろなことをしているんだろう。分からないけど。けどまぁ、してるとして。出来てるとして。別にできてなくても良くて、出来てると思えればそれでいいから。それの中で、そんな風に思えるものの中で、人が根本的(一次的?変な言葉だな)に行っていることはなんだろう。
例えばそれは感覚器官による外部の認識だろうか。さらにそれを単調化(機械化?化学化?理系化?ふぁっく!)すれば観測だろうか。そしてそれに連なる反射としての行動。それを高次化(自我の領域に拡大?気持ち悪く言えば文型化?)すれば感情とかの二次的に発生するもの(心?精神?なんでもどうぞ。神でもいいよ。etc)でしょうかね。そしてそれに続く判断としての行動だろうかね。それとも永遠と認識したものを文字に変換してムービーみたいに右から左に流してるのかもしれないし(ちょっとドッとストリームのイメージに近い)、文字ではなくてイメージ、ある種の『音』が響き渡って干渉しているのかもしれない。電子は波でもあるのだから、相対としてそんな動きしてもいいだろう。所詮電気信号。
だからなんだって。そう。だからそれをどこに定めるかによって変わるんじゃないのか。同じ行動を同じ人がとったとしてもその結果に対する評価が。
一瞬一瞬が反射の連続であるのならば、そこには反射の計算式を規定することはできてもそれを意図的に帰ることはできないだろう。その計算式というものを自ら設定できるのであれば別であるが、ソウイウモノを超えた領域に投げてしまえば状況など右も左も同じようなものになる。
ぱられるわーるどと言う概念がある。リョウシリキ学において波の収縮という概念を用いずにしゅれでぃんがー方程式を説明するための概念だったはずだけど虚覚え。それは世界が確立ごとに無限とも言える数に分裂していっているというもの。そこには物質の存在の可能性(その世界に進む確立)が定められているだけで、それが無限に掛け合わされて一つの世界にたどり着いているぐらいでいいのかね?M木君。俺はそう判断しているのだけれども。当然こんな素敵な数字になるものを計算は出来ないが(そもそもその計算ですら『この世界』の中で行われるという時点で胡散臭いよね。文字語るのに文字しかないように。)、そこにあるのはそれぞれ一つずつを選ぶというよりはそのどれにも今の俺から無限は制する自分がいると考えるとそれぞれの世界は同価値と言うか、全く差がないように思われる。だって、さっきまで同じだったのに、次には違っているだけで、そこから違いがどんどん大きくなるだけじゃないのか。こんなもの。ならそれらの中から一つが選ばれたのは『確実』ではなく、『偶然』であるように考えたほうがしっくりくるのだがなぁ。だって、自分と言うものが一度出来てしまえばその後はとりあえずその世界が確保されてそこからバラバラと分岐するのなら、それを自分の選択で選べているだろうか?バタふライ効果じゃないけれども、それと同じような話で。無限に分岐している樹形図の中から今の自分見つけるなんて無理だろうし、そんなことほとんど無自覚なんじゃないかねぇ。だから、今生きてるってことは、悪くもなく良くもないのだ。だってそんな対比する対象は『今』にいる限り、想像の中でしか現れない。まぁ、想像の中で現れた時点でそれはどこかにあるのかもしれないけれども、そしてそっちのほうがbetterとか思えるかもしれないが、所詮その世界を選べなかった自分の思考であって、違う世界を生きている時間の分だけその影響を受けているから、そのフィルターによって良く見えるってだけで、結構こう考えてるとまぁ、うん。人生あっさりしないかい。
と、いう提言。
まぁ、しんどいと思ったら休むことです。休むことを選択できる勇気とかいったらもう上の文全否定だね。いいんだよ。そんなもんで。あははー
って、最近気持ち悪いけど、もうちょっとがんばる。