ガリガリ

『の』。か。のなのか。つまらないな。なんだ。『する』だと思っていた。なんかそっちの方が良かったんじゃないのか。なんて、オレの勝手だな。原題なんだろうね。なんだろうね。楽しいね。原題。翻訳って言う概念すごく楽しいんだよ。どんなに頑張っても『それその物』に至らないからね。つか、やっぱり『する』のほうがよくねぇ?街に踊らされてる感じというか。そういう、無力さと言うか。ばかさ加減みたいなのが伝わってきて。あはぁん。まぁ、そんな感じ。
今日もまた古本買いあさった。やばいね。ヤバイよ。かねないよ。まじで。生活費ないよ。あはぁん。
manakaさんのミクシーの31日付日記に対するコメントに対するコメント。えーっと。K君とかshinとかのところからしゅーみ。って名前で行ったらいいんじゃないかな。JUN1もつながってたっけ?諸事情により書き込めないのだよ。ふははははっ!

それは個人のレベルの話。政治は個人のためにあるわけではない。命も個人のためにある話ではない。それは事後承諾的に(事後肯定的に)欠落として示されるだけである。言葉だって個人(本当の一人)であるならば必要ない。すべては関係性の中にあるだけであり、個人はその中の構成物でしかない。自分が個人であるからといってそれが完全な主体であるわけではない。自らを取り巻くものを、すべて自らの既知の投影として既知に置く限り、その世界は独我論的な論法を脱し得ない。
個人と言うものを排除して考えなければならないこともある。経済なんてどこに個人がある?すべて金と言うものに還元して話すのに何の違和感も感じない。個人などに対する保障はその後についてくるだけのものだ。それを前面に行うのであればそれは経済行為ではない。経済行為といわれるのは営利的なものであり、経済の発展は個人のためではない。経済はそれ自身に対する欲求の中で発展する。
感覚としての言葉を論理的な構造に対して使うのはその構造を理解してからするべきであり、『その人の心情や育ちがあらわれる』という言葉で批判するのであればそれは個人攻撃以外の何ものでもない。ついでに言霊と言うのはそういう意味ではない。
有機的なものの一面、一つの属性である数と言うものを、無機的なものとして扱うのが不満であるならば、無機的な考え方、論理的思考のすべてを否定しているのであろうか。論理的思考を否定するのであれば、その理論の根拠になるのはあなた個人のみであり、それは他者からすれば脆弱な壁であると同時に、あなたにおいては決して揺るがない壁であろう。例えばその論法であれば、「70歳以上の国民がすべて死ねば国庫は正常化する」などといったことを言うことも論ずることも駄目なのだろう。これは理論としては正しい。前提としている条件は省略されているが、それを当然の一致とするのであれば。だが、これを本当にするかどうかという段階で問題が起こる。それとこれとは別の問題だ。
数と言う考え方をしないなら経済も政治も機能しないだろう。そもそもすべて疑問系で書いて相手に投影させるなどと言う行為は論理でもなにでもない。ただの個人攻撃でしかない。
論理的な反論もせずに、感情に任せて反論もしないくせに、その考え方は嫌いだとも言わない。ぷぺぇ。
かなり感情的に書いてみた。まねまね。もねもね。