JIttaBAta

眠れぬ夜は何か考えるとかいうのは絶対嘘で。所詮なにも考えていないからダラダラと書き連ねるのだ。ろう。断定はしない。なんたっておれはさっきまで、もし全部知っていたら他のやつに教えてやるだろうか。とか考えていた。言うまでもなく、言ってないけど。書いてるけど。この設問は意味不明。全部って何だよ。とうぜんこの世の知りうることすべてに決まってんじゃないか。ちっちゃいこと全部じゃねぇよ。本当にでkっかい全部だよ。k一個変換できないくらいのでっかさだよ。でもそんなことでもちっちゃいことでも全部は教えきれない。教えるとか言語だけじゃ無理だっつーの。じゃあ、言語以外使っても教えられるかって言うとそうじゃない。だからどうした。どうもしていないんだけどね。
なんか思いつたことを書くのであれば、あれだ。深夜の電車。最近カテキョの関係で11時半位に新宿出るのやら、終電ギリギリの電車によく乗るわけだが。あの電車は乗ると疲れる。乗ってる人の殆どがなんだか疲れた空気はいてるからじゃないのかと最近思うんだが、すごく疲れる。酔っ払っていても楽しそうな人少ないし。仕事終わりの人とかだと最悪。別にその人が最悪なわけじゃないが、余計なフィルターでどんどん人の疲れを吸着していくようです。だからといって相手がよくなるわけじゃない。気のせいセンサーフル稼働。邪魔な限り。じゃまじゃ、ま。この時間の電車に乗れて寝れたことがない。帰ってきても異常なハイが一時間ぐらい続いて、素敵な感じにグラグラ来て、糖分寝付けない。アドレナリンが邪魔です。じゃまじゃ、ま。バイトがきついわけじゃなく、帰り道がしんどい。みんな疲れてて動きが緩慢だから電車もダイアからだんだんだんだん遅れていくし。その遅れは物凄い哀愁じゃないか。哀愁の癖に物凄い。そんなに疲れる町。うん。疲れる街。東京。
今日、適当にでっちあげた卒論の読書発表を器を出してごまかした結果。きりすと教とかにある「奇跡」っていうのは体感可能な神の威厳であって、それを抽象化して言葉で伝えているところが宗教なんだなとか思ったわけだ。そしてその体感可能性から教会みたいな場ができて、建築としても、人が集まった集会的な部分でも、軌跡に変わるナニカを体感するわけだ。それにくらくらするようなもの。ゴシックなんてわかりやすい。じゃあ、その段階が一段買い進んで、四谷にある聖いぐなちお教会とかになると、なんだかその建物さえ抽象化されてるように見えてしまう。一回ふらっと入っただけだけど。抽象化された奇跡を体感させるものだったものが更に抽象化された建物ってなんだ。次はどう抽象化されたか。そこの抽出の仕方は合理性だと思うんだが。あの教会は妙に合理的なのだ。そう考えるとしっくり着て、シンコー宗教の建物って言うのは妙に四角いのが多い。当然ビルなんだが。新しく作ると。集会場とか。ビルって言うのは空間を効率利用する方法であって、合理性の上に立っている。お金集めるのも合理性。じゃあ、その合理性をすべて廃している宗教ってないのかねぇ。とか考えてると、それって個人がやってる製作じゃねぇのかとか思い至る。宗教と呼べないぐらいにすごく小さいけれど。
あるモノを作って、そのモノからナニカを受け取るわけだ。いろいろな人が。そしてその人がそれを良いと判断したら買うかもしれない。買わなくてもいいですね。というかもしれない。その条件さえそろえばそこにはある種の価値を越えた部分での感覚の共有がなされる。当然その人が作品(こう呼びたくないけどとりあえず)から見出したものと作者の意図や、別の作品を見た人の受け取ったものが違ったとしても、それに対して好感を抱いた程度ではまとめていいだろう。丸か罰なら○というレベルで。
そこにあらわれる共有が面白い気がする。同じものでの体感可能性。同じことを体験するわけじゃないが、同じものから体感可能であること。これって物凄く重要な気がするのだよ。えへん。
だからそれをどう紙の上に表象していくんだよと。