にっき

帰ってきてからは二日ほど庭の木を切っておりました。昨日は蘇鉄。今日は柊。どちらもトゲトゲしたものばかり。決して鬼門ではない方向ではあるが、玄関横にこんなものを植えている。安心感は特に感じたことはない。切っている分には良いのだが、袋詰めが非常に痛い。特に柊。蘇鉄はとがってるのが先端だけだから少し気を使えば問題なし。柊は葉全身で手袋一枚とか平気で貫通する。チックチクチックチク。そんな中でも15オンスのデニムは何一つ通さなかった。素晴らしい。草むらに突っ込むときにこの部厚さは惚れる。色々つくけど。埃的な草片が。
気を取り直してもう一度書いてみる。今回はバックアップをしながら。最近自前のPCはなんだかとっても調子が悪いのです。どうにかしようとは思う。と、いうことで昨日消えたためにほとんど忘れた京都編。
初日。二日ほどの雨が嘘のような快晴。晴れた京都の暑さを思い知る。日光が強いんだ。
9時半に川原町到着。八坂神社の前にある俺が小学校の頃から着用している銀の腕輪を売っている店に。怪しいおっちゃんにツボのマッサージを受けると元気になる。右肩甲骨下辺りで疲れがたまっているらしい。目らしい。回復力がすぐに上がって行ったらしい。まだ若いらしい。バンザイ。胡散臭くて体感あるのは楽しいよなぁ。味でもそうなのだけれども。いかに体感がいい加減なものか。
そのまま東に進んで円山公園内を抜ける。ぼけーっと公園内を見ていた。人がいなくて良い。人がいなければ大体の景色は素晴らしいものになる。でも、いないといないで寂しい。寂しいのは味になるのに、人ごみは味にならない。どうしてだろうか。味は静けさだろうか。人はいるだけでウルサイ。音とかの意味ではなく、デザインとか服に対して使う言葉で、ウルサイ。そういった感じだろうか。だが、案外に外人さんは京都の町に溶け込んでいるように見える。浮いているのは、なんだろう。街と人の温度差とでもいう部分だろうか。それが蓄積すると違和感になるとすれば、団体旅行のあの、独特の居心地の悪さも、なんとなく分かる。知念寺を横目にみながら、仏教的なカタストロフィー?とでもいうべき圧倒感な建物たちを見る気分ではなかったので素通り。ねねとかモエキャラとも思えないしな。
そのまま北進して、平安神宮周辺へ。たぶん、京都で一番行ったことがある場所あたり。国立近代美術館で下村良之助展を見る。とてもよかった。展示も良かったし、展示してあるものもよかった。建物もよかった。よかったよかったなどと連呼しても全く意味はないし、まだやっている展覧会なら多くは書かずに行け!などと、書けばよいのであるが、行った日が最終日である。どうしようもない。少しばかりは何かを伝えてみて、どこかでこの人の作品を見かけたときに引っかかりぐらいになれば良いとしよう。それにはこの文章を誰かが読んでいるという前提が必要ではあるのだが。まぁ、自分の中にもう一回ぐらい引っかき傷をつけておくつもりで。
入って目の間にあるまっすぐに進む階段を上り、中ほどから左に90度曲がった先に、梟が一羽、大きな目をこちらに向けて飛んでいる。飛び出してくるよう。などと形容してもよいだろう。が、その梟は当然、盤面に固定されており一つも動かない。左右のツバサは同じように見えて少し違っている。顔は完全にこちらを向いている。正面を向いている。この梟は飛んでいる。だが、普通に飛んでいるのではない。普通とは違った、飛んでいる状態を、永遠にこの盤面で飛ばされている。良い思いをしたものだ。一匹の梟は分解され、再構成されたときには飛ぶ行動のその、真摯さと勢い、その逆の静寂さ。を与えられた。この人はいわゆる抽象の人のようだ。俺は抽象が好きだな。などといった意味のない文章が思い浮かぶが、まさしくこういったものを見たときのそう、再確認する。ロボットが好きなのはそれがある構造、ある行動をするもの、の再構成であるからだ。人型ロボットなどその極である。人間を分解して、その要素を別のもので再構成する。素晴らしい。そこにあるのは意味における微分積分であろうか。それはものの一つの見方を表す。その人の見方が二重の意味で投影される。一つはその要素を分解し取り出すとき。もう一つはそれを再構成するとき。その方向性によっては、人にはわからない、謎のカタマリが出現するだろう。だが、それは何かを再構成した何かである。そこに意味の微分積分を持ち込んで理解することも出来るだろうが、当然そうでない場合がある。その結果をどう捉えるか。それをどう見るか。過程を見るか、結果を見るか。結果だけが示されているものに空想の過程を見るか。などと。文章はわき道にそれた。鳥の飛ぶ勢い。鳥の飛ぶ静けさ。などが見えた。気がした。
読み返してみたら自分に黙れと言いたい。とりあえず今は我慢。
で、久しぶりに図録を買って、この結果非常に鞄は重くなる、無隣庵にとって帰す。意外と近かった。と、いうか看板を見てこんな場所にあると知る。名前しか知らなかったので。ここらへんから庭にまつわる旅行と化していったよう。庭自体はこじんまりとした中に、開放感もあり山が後ろに控えていることもありとても、気持ちよい。だが、偶然にも茶室でのお茶会をするのか、10人ぐらいの集団と居合わせてしまったのがなんとももったいない。庭は人が居ないほうが良い。着物を着た人であってもちらほらといるぐらいが良い。ガヤガヤとされては、なんとも興冷めであった。というほどの者でもないが。洋館の二階の応接間?がすばらしかった。内装と、重厚な暗さはなんとも言いがたい。
疲れたからこれぐらい。こんなに伸びると思ってなかった。