夕立の後に会いましょう

涼しくなるよね。夕立降ったら。
明日からって妙に俺はいないかもしれない。というか、どう見ても時間はない。すまん。日曜日一緒に行くか?すとりーむの一番後ろになら押し込めるスペースは残っていそうだ。運転担当でも良いよ。あ、日曜日は直島な。本気で行きたいなら良く人たちに了解を取る。だが、きっとお前は行かないと言う。そして、こう書いてあるだけでより行かないと言うだろう。ならば俺はどうすればよかったんだ。だってその日ぐらいしか本当にないんだ。無理しなければいいと思うよ。お前は言うだろう。俺は笑ってやる。アヤナミのように笑ってやる。つまり、笑えない。無理してでも頑張るんだよ俺は。と答えてみよう。勝手にしたら。とお前は言いそうだ。いや、そもそもこんなに会話が続かないかもしれない。続かない気もする。大体それまでに話題が変わる。あ、そうそう。来年のえふわんどうする?当然ライコがいるかどうかが一つの大きな目安ではあると思うが。行く気ある?鈴鹿
独り言。ぱたぽん2同伴版の新型PSPが欲しかったり。

昨日の続きを頑張って書こうと思う。頑張らねばかけないことなど書かないで言いようにも思うが、なんだか書き始めたので書こうかとおもう。終わりまで書くことは重要だ。話をどう続けようか。唐突に書き出してみるのも悪くは無かろう。
庭園に必要であると感じるものがある。亀である。亀が池の半ばにある岩に鎮座して首をすっくと伸ばして日向ぼっこをしている姿は素晴らしい。遠目に見ると灰色の石のようでありながら、生きている。思い出したように首を傾ける。その背中の甲羅が苔むしていることも重要である。亀は勝手に庭園の中で自由である。好きに生きている。だが、それは人間が放ったものだ。木々は大きな意味で制約を受けうるが、亀は自由だ。亀こそは庭園の主である。人間はその亀に追従しているだけだともいえる。水槽の世界の主は魚であり、それを維持するために奉仕する人間。まぁ、よくある話。
といった感じで、亀はいいんですよ。当然池がある場合ですが。広島で見た縮景園?も亀が。よかった。亀がよかったといっている限りでは全く全体を見ていないようであるが、やはり全体のあの作られた『作られていない感じ』、作為の『自然』とでも言うものの中で唯一、はっきりと反逆しているように見える。亀。
かれせんずいの場合は水がないから当然とも言えようが、そもそも生き物が居ない。人が入る余地すらない。あれは次元が違う。わざわざ普段の世界から次元を変えた、抽象化した場を庭として据え置いている。だから、上から見るものであり、中を歩いて見るものではない。そこで思想といったまとまった考え方が背景にすえられるようになる。ちょっと西っぽい考え方。仏教の体系的な影響だろうか。な。生き物が居ないところはやりやすい。生き物が居るとろこがなんか、本当の戦い?闘争とかではなく、踏みとどまる場所、(自分が)であるような気がする。生き物は他者と置き換えて読んだら、やりすぎだろうか。かれせんずいは、投影された自分を映し出す装置であり、庭園は自分をその中に投じるものである差。
その後、細見美術館に行く。いんどねしあ更紗を見る。
電話が重なってなんか切れたので今日はここまで。