いっそ血反吐でも吐いたらこの憂鬱

いや、別に自分の中にある憂鬱を取り出してきてモノのように地面に据えてその上に首を垂らして、口を大きくあけて血の混じった反吐、ゲロと反吐はどうちがうのだろうか、を吐きかける、やはり反吐は反対に吐いているから飲み込むものだいやそういうことじゃない、血反吐の血色具合はどんな血だろうか、喀血といわれる血は鮮血であるから、赤いだろうか、だが体の中で黒く固まった血の塊を吐くこともあるんじゃないか、胃ぐらいしか思いつかないが、そんなことあるのだろうか、たいなどと思っているわけではない。なにこの英語の関係代名詞節がめんどくさすぎるような文章のような俺の文章。つまり、そのようなことではなく、いっそのことこの絶妙な、微妙すぎて自分以外にはわからない程度でしかない内臓キシキシギッシギシである、体調不良が目に見える形となって血反吐でも吐いてしまえればすがすがしいのに、ということである。そのような発言が実際に体調悪い人に対してどれだけ失礼なことであるかは、つい先日父が病死したばかりであることを考えても十二分以上に感じるのであるが、なんというかこのような微妙な雰囲気は、過激な言葉の後に訪れる余韻、であるはずもなく、ただ文字を打っていたら出てくる文字たちであり、意味を後から考察しているわけでもなく、ただどんどん文字が、文字がぁあっぁっ!ってな感じなのである。かといって自分に責任がないなどとは毛頭思っておらず、責任というものが何であるかはいまだ未知数であるが、未知数であるなりに、責任という言葉はどのようなところにいても違和感がない。どのようなところにいても違和感がないような言葉は全く持って胡散臭い。トマト。めだか。トーテムポール。それぞれどう見たっておさまるべき文脈があるように思える。最後の一個なんてムーの中でしか見ないような言葉じゃないか。そんなことない。知ってる。知ってても知らないふりをしてしまう。ある種のみゅんひはうぜんn症候群。つまり、ただの法螺吹きか。このとき俺はどんな法螺を吹いているのだろう。吹いている法螺のサイズは、ついている嘘のサイズか。法螺の色合いとかは、ついている嘘の雰囲気か。それともそんな法螺じゃなくて、ほらはまったくべつにいるのだろうか。俺の知らないほらがまだまだ俺を待っている。ほらほらほらほら。
今日は憧れのアラビアのコーヒーカップカップアンドソーサーのソーサー不在につきたたき売り棚から救出してきた。母親には柄が怖いといわれている。怖い柄は珈琲の苦みに影響を与えるかどうかは明日以降検討していきたい。