りはびり

全然うまく書けないから書く練習ぅぅ。練習って何だ。書くなんてことは指じゃなくて腕やら手やら体ですることで指ですることじゃないんじゃないのか。別に指で各文字もあってもいいよね。裸の背中を指でなぞるなんて考えるだけでゾクッとするしゅちえーしょんだよね。そういう時は迷わずはりうっど的演出でお願いしたい。きっと俺の腹にぶよぶよと醜くついた贅肉は8個に分かれる筋肉に置き換わっているのだ。それはもう俺じゃないんじゃないのか。俺の筋肉と肉体のアイデンティティってなんなんだ。変化して、贅肉が筋肉になってしまったらお別れだ。さようなら過去の俺。さびしくないよ。だって今日からは個々の肉体の境界も感じられないように溶けあったぶよぶよの贅肉が一塊ではなく、8つという明確なコロニーに分かれた筋肉群、8人の筋肉たちと一緒なんだ。だから安心して消えて行きたまえ俺の贅肉。そういいながら、おれは腹筋をしている。なんてはずはない。運動は嫌いである。歩くこと以外。歩くことは運動と呼ぶには、あまりにも生活に近すぎる。たとえば包丁をまな板にたたきつける作業は運動と呼ばないのと同じように。運動ではある。あるのだけども、運動じゃない。じゃあ、なんだっていうと、しいていうならやらざるを得ないこと。みたいな。呼吸とかと。けっして歩けない人にたいして失礼ことを言おうとしているのではなく。あらゆるものの前提にある行為。とか。そうせざるを得ないこと。みたいな。社会的、精神的抑圧があるわけなしに。そんな感じ、後頭部の後ろの上の左上あたりに引っかかりができる感じ。そういや慶君。alu君などと言わずにaluと呼び捨てにしてもらいたい。いっそのことlauであったり、ulaであっても全く問題ないと思う。きっとおれのことだと俺は俺一人で勘違いし続ける。相手のことを知っているつもりで実は途中からブログの編集者が変わっているなんてことはしょっちゅうあることなのかもしれないが、俺には一回もないことであるがあると信じていることなので、その希薄なつながりのなかで俺の中で慶君の書くulaはaluの書き間違いであるか、書き間違えをそのまま放置するような性格ではない君からaluにたいするある種のメッセージを込めた名詞であると解釈し、なにかを感じ取るだろう。という文脈によってaluクンという表現の中に何か異常性を感じるのだ。何かおかしい。じゃあ、べるぜぶぶをbeelzebub君といったら、何か違うのか。明らかにこの文脈にそんな名刺が出てくることがおかしいということになってしまう。ほら。おかしい。けどおかしい部分が異なるではないか。とても駄目な状態である。
本当にリハビリみたいな文章だねこれ。楽しいね。だれがだよ。少なくとも俺は楽しくない。楽しいことが書けないじゃないか。楽しいことを描けていない微妙すぎる俺をエンターテイメンンント化。なんでも消費してしまいなさい。この文字だって食べてしまいなさい。
いつかお前の中で宿便のように溜まった俺が大暴れしてやる。