さいけ☆とらんす

Infected Mushroomを聞いていてふと思い出した。
まともじゃないのが自分の普通なのにまともにやろうとやりすぎてないか自分。ぶっ飛んだ方法で何とかぎりぎり辺りを狙ってやっていたのはどこへいってしまったんだろう。ちょっと触れただけでこの感染力である。社会とは怖いものだ。自分がやりたいと思うこと、自分がいいと思うこと、は慣習やら、体面のためにあっさりと流されていく。一人だとそんなものどうでもいいのに。一人じゃないがためにどうでもよくなくなる。本当に付き合いたい人とだけ付き合うなんてすげぇ幸せだろうなと思うが、そんなことはないことだということも十分わかっている。そんな中でやりたくないことをガリガリとやるのは、血が黒くなっていくような感じ。毒がまわっていくというか。もちろん、普通にやりたくないことはふつうにやるけども、そうじゃなくて「やりたくない」の部分が、自分の譲りたくないところを抉ってくる場合。一番大切だと思って、一番大切なものを土足で踏みにじられるのはたまらない。何を見ているのだろうかと思う。いや、いろいろな行動は現実的な目的にむかって行われる行為であるのだから、その行動によって何を見ているのか、何を見ているように思われるか、とかあるんだろうけどな。発言だけでなく、どこでどう行動するかすべてがその人の見てるものあらわしてるよね。俺の使う見ているものって概念は何なのだろうか。目がいいは単純にものそれ自体をどれだけみれるかみたいなところで使っていきたいのだけれども。おそらく、先入見をどれだけ捨ててそのものと素で対峙できるかとかなぁ。ものそれ自体はカントみたいな話ではなくもっと単純に、日本語的に言い切ってしまいものそれ自体。「それ」という指示代名詞がいちばん近い感覚か。それをしっかり見れる。それが見えますか。それはいかがですか。といった文章のそれ。といってもこの三つも文脈から相当に放置されているから、茶室でとか条件付けしておこうか。あぁ、それがそこにあることを、そこにあるそれを、いまをつけてもいいのだけれども、素直に(ありのままにというと誇張が過ぎる)さらりと、受け入れることか。それが小林秀雄にひかれる理由だろうか。頭を使わないでまずそれに触れて見て使って、そのあとに言葉があることか。(見もしない風景を唄うこともある。ここには混同があるが。そこの焦点の差。)
なんかもっと面白いこと言えよ俺。言わなくてもいいや。誰も聞かないでいいよ。俺が一番俺の話聞いていないから。