珈琲と酒の間

駄目駄目である文章ばかり書いていて自分が嫌になるがどんなにダメであっても向上心を持ち合わせてしまっている俺は文章を書き続ける。そして書きあがった少しだけの満足を今日の浅い睡眠に付加してくれるはずの少しいい感じの文章はものの見事にインターネットの狭間に消え去っていた。ビバ通信エラー。ばっくあっぷを取っていなかった自分の不手際である。ここまで駄目であると今日はどれだけ駄目であっても駄目でしょうがないと諦めがついてくる。だから、どんな事かいてもその内容が駄目であるのは俺がダメだからではなく、今日の俺がダメだからであって、明日の俺にはその駄目な文章は全く関係がない。だから俺は何を書いてもいい。そんなわけはないよなー。そんなわけない。残念そうな顔したって駄目。おれはそんなにダメなことを書くようなやつでもなければ、こんなくだらないダメダメとダメをいくつかけるか作文に挑戦しているような文章を書くために夜更かししているなんて最悪の極みである。うわっ!本当にダメだ。駄目駄目とそんなに言うけど、本当にダメなのか。え?だめじゃないのか?だめじゃないかもしれないぞ。たとえば南極で氷のはざまに落ちてしまった母親ペンギンを待つペンギンの親子なんかよりはずっといいんじゃないのか。そのたとえばもうダメだろ。悲しすぎる。エヌエイチケーの映像が流れる。えぬえいちけーじゃなかったのに。きっとこの映像のクリアさはびーびーしー制作だ。なんからーめんずのコントみたいになってる。おかしい。そんな話じゃなかったはずなのに。またダメだ。そうそう、消えた文章はさりげなく季節感を取り入れて変わってるブログのタイトルを梅雨にかけて、ベトベト梅雨のような文字と自分の文章をののしって、えぇと。その梅雨が反吐とつながって。ん?ぁあ、そうだ。べとべととまとわりつく梅雨のような文字に反吐が出て。反吐からいかに嘔吐をするか。べつにサルトルのような不快感を言っているわけではなく、具体的な吐瀉物のはき方について、そのコツを幼少期からあらゆる乗り物で吐き続けた自分の経験をもとに語って、嘔吐の一番のかなめは我慢をしている時の不快感ではなく、実ははき切ってしまった後のあのすがすがしさ、筋肉の力が抜ける感じ、にあるのではないかという価値観の逆転に到る壮大な話だったのだ。そしてそこから唐突に思い出話が急速に個人化し、いやそもそも思い出話は常に個人のものでしかないわけだけれども、嘔吐の後にいつも飲まされていたポカリのあの甘さは、胃酸が充満する口の中で忘れられないものであったという話であり、そのことで啓発された父親の思い出から唐突に現状の父の死を思いっきり思い悩んでいる自分の姿を少しさらして終わる、その自分の到らなさを文字化できるところまで来たんだよ、すげぇ感動の最終回!的な終わり方だったのに台無しである。やべぇ、自分で書いてて感動しそうだそんな文章。凄すぎるよ俺!決して消えた文章なんてなくって全部創作だなんてそんなことないんだからね!箱構造の上にらーめんずのコントぱくったりなんかしてないんだからね!すっげぇ気持ちよく寝れそう。だろ!興奮してきた。俺才能あるんじゃない。よし、この勢いで寝よう!寝れねぇ。やっぱ今日だめじゃん。