きれいな花でも眺めながら

そういえば今日は七夕でした。ぞろ目の数はなにか特別。綺麗な雰囲気。結構な風が吹いていて、いい感じにベッタベタな湿度で、汗ばむ程度の気温で。一年に一度しか会えないとか、どうなんだろう。不老不死なら関係ないんだろうか。364日ねてばいいんだから。ただ、それじゃあおもしろくなさそうだな。なんで、恋愛とかからんだら時間たっても素敵みたいな感じになっちゃうんだろう。時間たったらいいならウランの半減期だってロマンチックじゃあないのか。すっげぇ長い時間かけて熟年離婚していく家族たち。みたいな。
続「自分の首を締めたい」感。
「自分の首を締めたい」という言葉はそこで起こっている事態は首つり自殺と同じものであるが、「首を絞める」という言葉によって、ただの首つりとは大きく異なっているように思われる。首を吊るのは、吊った段階で終わり、吊るまでの準備が全てで、つられた後の自分は被行為者として存在するが、首を締めたい、というのは首を絞めるという動作を自分自身に対して行いたい、首を絞めるほどの情熱、憎しみ、前進的行為が自分に対して行われようとしており、首を絞めるという動作の最中にも、首を絞めている自分と、首を絞められている自分が共存している。
これは、ちょっとおかしな事態。
ただの破壊衝動が暴走して、一番手近で壊しやすい自分に向かった結果、自分が壊しながら壊されていくという形態をとっているのか、破壊衝動、破壊行動の中にある自己破壊性、外部を破壊しているように見えて自分も泣いているんだよ的な、が端的な形で表れているのか、それとも、外部へ消化できない破壊衝動の照り返しなのか、あらゆるものが嫌いでそんな自分も嫌いなのか、ある種の自傷行為の表れなのか。
まぁ、そこら辺の内的処理はどうでもいいんだけど。
問題なのはどうも自分の中にも、自分の首を思いっきり締めたいという感覚があることか。
首を吊りたい、でも、気持ち良くなりたい、でも、死にたい、でも、消えたい、でもなく。消したいとか、殺したいとか、さしたいとかでもなく。はっきりとこの両手で絞めたいという感覚。その結果の死を見ているわけではなく、締めることによる苦痛がほしいとかでもなく、いらだち紛れに自分をこう、締めちゃう?みたいな?こんな軽い感覚じゃないけども。自己嫌悪の一種でしょうか。
ただこのとき、絞められている自分は存在しなくて、おそらく絞めている自分が主体である気がする。なんかやおい本みたいね。イェイおれは責めだぜ。みたいな。
そういえば。やおいのほうがヤってる最中に首絞めてること多い気がする。やおい本の受けと攻めは実は一人で、一つの成長物語なんだ。みたいな話書いてる人いないのかな。恋愛よりも(肉体的な差がないから←こんな理由じゃ俺は納得しないけど書いてみたらそれっぽい言葉)相手の非対象化みたいなことが起こっていて、相手との境界がすごく曖昧な気がするのだが。俺の嗜好のせいかもしれないんだけど、腹立ちまぎれにやる。みたいな話が結構淡々とあるんだよね。それってエロまんがじゃ受けないんじゃないだろうか。目的が違うからかしら?つか、エロまんがにはキャラ立ちした攻めがいなくても成立するのか。まぁ、けどそういうはやおいにももあるよね。こういうジャンル分け自体がおかしんじゃない?とも思う。村上真紀の書く同人のほうのグラビはあれはただのエロまんがだろうし。