煌冷凍非読用飯

人が死ぬということと、人を愛するとか、好きであるとか、嫌いであるとかといったことは、まったく関係がないのに、関係があるようであるということ。どうもそのようである。よくは分からない。この文章は、人が生まれるということと、楽しむこととか、悲しいこととか、涙が出てくるといったことは、まったく関係がないようで、関係があるようでもある。ということと、構文的には差がないのだろう。内容が問題であって、問題の話をするべきなのだろうが、この二つの間にある、なんともいえない差はやはり、生まれるとか、死ぬという言葉が引き連れている、その言葉の背景たちだろうか。白塗りの上に文字を書くか、黒塗りの上に文字を書くかの差のように。内容なんてほとんど、関係がない。この二つの文章には内容と呼べるようなしっかりした何かは、おそらく、ないだろう。ないのだが、なんとなくあるようなモヤモヤしたものは、他の事でもなんとなくモヤモヤしてしまうから、きっと、勘違いなのだ。などと、言葉のせいにできたら、なんと頭が清々しいことだろう。そんなことばかりぼんやり考えていると、内臓が軋んできて、そういう痛みで、この文章にはやっぱりなにかの意味があって、その意味によって俺の内臓は軋んでいるのかなぁなどと思うのだが、これもきっと、ただの物理的エラー。肉体から心みたいなものが離れて、魂のように軽い容にはなれないようだから、きっと、そういった思考とか頭の中で再生される意味とかいったものは肉体にも多少のファクターを及ぼせるんだろうけど、なんだか、それも嘘くさい。なんて考えるのは自然じゃぁないか。足の小指をぶつけても俺は痛くない、とか言ってるみたいだな。痛いものは痛い。しんどいものはしんどい。嫌いなものは嫌い。といったことを出来るだけ素直に自分の中だけでは確認していたつもりなのに、いつの間にやらこんなにこんがらがってしまった。確認してもそれを頭の片隅に入れとくだけじゃなんの差もないと言えばない。だが、それをちんたらこなすことに自己韜晦的快感を得ていたことは確かである。そういったものがぷらいどとかいったことじゃないか。ぷらいどって日常って書き換えてもいいと思うんだが。ちょっと違うのだろうか。譲れない日常、ぐらいでどうだろうか。それってただの我侭か。そんな感じで、誰にも、特に話す事でもないようなことばかりたまっていくと、自分でうんにゃらうんにゃら処理していくわけだが、でっかいのが二つほどごろりと横たわっている上に、どうやら、俺には荷が過ぎた事でもやったようで、何箇所か骨折しているようにやる気が出ないので、本当に一日だらりんと、太陽がさっさと過ぎ去って、夜が来て12時を過ぎるとだらりと延び広がる時間の中で、ぼんやりと、今日もやる気が出ずに、特に何もせずに、自分の中の真面目な俺が何もしていないことを罵倒しながら、本でも読んでみる。音楽でも聴いてみる。そういえば、ヤケクソのようにキヨシローのCDを買いまくっている。冬の十字架以外はツタヤだったり借りたりでなんか悔しいのだ。つか、MDもうどっかいった。まぁ、ひでちゃんでさえ、CD持ってなかったからなあ。中学生の経済力。相方はマイケルジャクソンのCDを買いまくっている。じゃあ、今夜はひとりで追悼ライブCD視聴会。
そういえば、すっかり忘れていたので紹介。
自分のバイト先でお茶入れてる人が本出しました。
日本茶ソムリエ和多田喜の今日からお茶をおいしく楽しむ本」 二見書房
だそうです。よろしければどうぞ。
この業界は本の種類少ないからちょっと大きな本屋だと結構入荷してるみたいだし、売る気満々みたいなのでちょい大きな本屋だと見かけると思いますよ。と。アマゾンにもあるのかもしらんが、探してないから不明。近所の本屋には3冊ずつ入荷しててビックリした。