一冊の本がある。
臙脂色をしていたであろう背表紙は破れ、中のページは半分ほど失われてしまっている。表紙には泥が染み付いて金文字で穿たれていた表題は黒く変色していた。
だが、その本は不思議な魅力があった。それは年月を経たものだけが持ちうる一種霊的な権威であった。
その本はゆっくりと成長していた。
その本は生まれてからゆっくりと自らのページを自らで作り上げていっていた。
始めはただの皮表紙であった。
羊を屠殺し、皮を剥ぎ、その皮を日陰で干し、アカシアの汁でなめし、金を使った装飾を施された。
だが、その革表紙はページを入れられることなく事無く、職人が戦争に巻き込まれて未完のまま工房の隅に棄てられていた。
暗く腐臭のする闇の中で無から白紙のページを想像し、血管のように文字を張り巡らせた。
その文字はどのような言語にも似ており、そして同時にどの言語とも異なったものであった。
誰でも読めるが、誰も理解できない。そういった種類の文字がその本には綴られていた。
この本が作られた頃から工房のまわりには死が満ちていた。
戦争で村が滅ぼされ、男は皆殺しになり、女子供は慰み物にされた。
廃墟となった村に住むものはおらず、いつの間にか植物も枯れ果て、茫漠たる荒野が広がっていた。
疲弊しきった戦線に嫌気がさして脱走をした兵士が一夜の凌ぎにその工房を訪れ、偶然にその本を手にするまで、本は一人でゆっくりと成長していた。
脱走兵はその本に惹かれた。
長い年月をかけてその本は人々の間を巡った。
ある時は砂漠を旅する者の手に。また、ある時は権力を謳歌する貴族の手に。ある時は革命に巻き込まれ炎に焼かれた。
だが、本は成長を続けた。