コバヤシ・ヒデオ

alu2006-06-26


普段ならアルコール片手にサッカー見ている時間に、今日はアルコールではなくコーヒーとルイボス置いて本なんぞを読んでいる。本を読むということは妙に儀式めいた行為で、とてつもなく没頭してしまう。誰かが、別に本を読んでいいといった言い方をしていた気がするが、なんとも妙なことに、本気でそんなことをしてしまうといろんなことから置いていかれてしまう程度に読書とは危険だ。別になどと言いながらはじめてしまって、本末転倒にその目的自体を放棄してしまう程度に。
いまはノートパソコンをちゃぶ台の上に置き、その横にほも・るーべんすを置き、更に横にお茶が置いてある。一番手前には本と、シャープペンが一本。ほも・るーべんすは下のほうの葉が黄色くなって落ちかけている。合計10枚の葉が生えているのだが、下の3枚はもう駄目だろう。花は少ししおれてはいるが、まだ一枚も落ちてはいない。今は私がキーボードを叩く振動によって少しだけ葉が揺れている。向日葵は花がアンバランスでとても可愛らしい。大きすぎる、そういえばこの部分はなんて呼ぶのだろう、ガクではないし、中央の恐らくおしべとめしべが並んでいる部分。そこの大きさと、そぐわないサイズの黄色い可憐な花びらがまるで幼い少女のような可愛らしさを連想させるのだろうか。特にほも・るーべんすは花のサイズが10センチほどしかないので、身長よりも大きな向日葵の持つあの威圧感も無く、これからかれる一方の存在だとしてもとても可憐な姿に見えるのだ。
小林について、コバヤシヒデオと書かないのかと言うとやはり余計なリンクが来るのがわずらわしいと考えているあたり十二分に何かを書く資格などないように思えるが、なにか稚拙なことでも書こうかとも思ったが、そのようなことを書かなくても、自分が素晴らしいと思った一節、引き出してみても十分に読めるであろう部分などを引用するほうがよほど良いように思える。当然だろう。
私が小林を始めて読んだ、読んだといえるかどうかはわからないが、のは高校のときだったか。確か途中で挫折した気がする。もしかしたら中学のときだったかもしれない。もしかしたら1ページも読めなかったのかもしれない。興味が湧かなくて。たまたま本屋で違う作家を探している折に小林の書いたモーツァルトが目に入り、不意と気が向いてかってしまったのだ。いい加減に本気で読まねばならない作家ではあった。その契機となった一つに昨年まで私の通う大学の教授をやっていた人が朝日に書いた書評で、あの頃の私たちは小林に全てを教えてもらった。モーツァルトもドストエスフキーも、といった内容の文章を読んだことがあったことは記しておこう。新潮文庫から出ている小林の文章の一節をこのページを読んでいて、決して小林など一生読まないであろう誰かのためにでも書いてみようと思う。一人でも興味が出れば、それはその人個人の精神の育成(?)に役立つことと、国家に有意義な(!)優秀な人間が一人生まれるであろうということあたりで許していただきたい。そして一人でもこれがきっかけでこの本を手に取っていただけると、ありがたい。漢字はできるだけ再現する。

『個性や主張の重視は、特殊な心理や感情の発見と意識とを伴い、当然、これは又己の生活経験の独特な解釈や形式を必要とするに至る。』(P18)

『優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現していて、これに対しては学問上の言語も、生活上の言葉も為す処を知らず、僕等は止むなく口をつむぐのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を抑え難く、而も、口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。そういう沈黙を創り出すには大手腕を要し、そういう沈黙に堪えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする。美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも実は遥かに美しくもなく、愉快でもないものである。』(P20)

『例えば、風俗を描写しようと心理を告白しようと或は何を主張し何を批判しようと、そういう解り切った事は、それだけでは何んの事でもない、ほんの手段に過ぎない、そういうものが相寄り、相集い、要するに数十万語を費やして、一つの沈黙を表現するのが自分の目的だ、と覚悟した小説家、又、例えば、実証とか論証とかいう言葉に引き摺られては編み出す、あれこれの思想、言い代えれば相手を論破し説得することによって僅かに生を保つ様な思想に倦き果てて、思想そのものの表現を目指すに至った思想家、そういう怪物達は、現代にはもはやいないのである。真らしいものが美しいものに取って代わった、詮ずるところそういう事の結果であろうか。それにしても、真理というものは、確実なもの正確なものとはもともと何んの関係もないのかも知れないのだ。美は真の母かも知れないのだ。然しそれはもう晦渋な深い思想となり了った。』(P21)

『批評の方法が進化したからと言って、批評という仕事が容易になったわけではない。批評の世界に自然科学の方法が導入されたことは、見掛けほどの大事件ではない。それは批評能力が或る新しい形式を得たというに止まり、批評も亦一種の文学である限り、その点では他の諸芸術と同様に、表現様式の変化を経験しただけの事である。批評の方法も創作の方法と本質上異なるところはあるまい。』(P29)

『確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先きにもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは性格で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引摺っていないだけだ。彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。』(P41)

『併し、僕はそういう見方を好まぬ。そういう尤もらしい観察には何か弱々しい趣味が混入しているように思われる。十九世紀文学が十分に注入した毒に当った告白病者、反省病者、心理解剖病者等の臭いがする。彼等にモオツァルトのアレグロが聞こえてくるとは思えない。彼等の孤独は極めて巧妙に仮構された観念に過ぎず、時と場合に応じて、自己防衛の手段、或は自己嫌悪の口実の為に使用されている。ある者はこれを得たと信じてあたりを睥睨し、ある者はこれに捉えられたと思い込んで苦しむ。』(P42)

新潮文庫 「モオツァルト・無常という事」(文庫版)より

これ等の文章が、私が個人的に選別して引用したという事態において、一つの方向性を持たされ、本来ある文脈の中で理解されるべきものが、全く別の私が作り出した文字空間(文脈)の中での理解になってしまうことは真に遺憾であるが、後世の愚かな一批評家、そのような名を名乗るのもおこがましいが、が行った愚かな批評の一つだと思って我慢していただきたい。
この言葉が誰かに届くことを祈って。