お前らの終末を告げる鐘の音は俺にも等しく聞こえるのか

すべてのことは必然である。なんて考えたりする。偶然なんてないんじゃないか。
だが、本当にすべてのことが必然であるのならば、すべてのことは偶然とどう差があるのか。
すべてのことなんてとらえようがない。とらえようがない現実の有象無象を称してすべてのことと言ってしまっている。
ここにあるのはそのとらえようのなさを必然と解するか、偶然と解するかだけの差である。
すべてのことは偶然であっても必然であっても何の変化もしない。変化するのは、それをとらえる人だけである。だからそんなに目くじらを立てて怒らないでくれ。
すべてのことは偶然である。この文章が先にあっても同じで、すべてのことからしたら、偶然であるなら別に必然であってすらかまわないだろう。
これは「すべての」という言葉を認めた段階でそのあとに続く言葉がどのようなものであっても同じである。「すべての」などといいながら中身が空っぽの「すべて」について話している。いや、すべてのの持っている訳わからなさは文脈を支配するほど偉大なのだ。
だからこんな文章も空っぽだ。
すべてのものは存在していない。すべてのものは価値がある。すべてのものは尊い。すべての人を幸せ。こんなものは誰の幸せもみていない。
同じような言葉に「国民」とかもあるだろうし、さらには「あなた」なんかもそういった場合がある。
そういいながらすべてのすべてのについて語ってしまっていそうなこの文章も既にからっぽである。
だが、たしかにすべての人の幸せ。なんてそういうしかないものもある。
それはそれくらいわけわからないもので、想像もできず、リアリティーも全く何もない。祈りの言葉とでも呼ぼうか。一人で夜中に叫ぶのには素敵な言葉である。昼間に叫ぶと変な人扱いされそうだ。
ふとおもう。
祈りの文脈は古い日本の文章であるのかな。もしかしてないんじゃないのか。