点々の間の隙間

「神の前での平等」はよくわからんが、「死者の前での平等」はなんとなくわかる。
死者を前にしたとき、その個人との関係はすでに解消されているため、どのような人であっても相対することができる。厳密には相対ではないのだけれども。ただ、自分の中に死者を投影することしかできないのであるが。
関係性は過去に対してしか維持できず、それ以降の関係性は個々人の中で、他者(相手)無しに消化されることになる。もう相対する相手がいないために。
そのために人は目の前に人がいるはずなのにいない、透明な人と相対することになる。
そこにいるはずなのにいない人、関係性の消滅が更新されることなく、宙ぶらりんの状態に突然投げ出された状態。これは葬式などの人が死んでから間もない間のことだろうが。(この表現って、だれかが人間の状態あらわした表現にすごく似ているのだが。思い出せない。さるとるあたり?)
その状態が一区切りつくと、人は関係性を過去に押しやって新しい関係性の中、厳密には関係「性」はもうないのだが、その人が不在であることを念頭に置いた、かぎかっこをつけた死者と相対することになる。俺の場合、父さんが『父さん』になるのだろう。まだそんな予兆ぐらいしかないが。ないなりになにかはありそうではあるのだろう。ここで、呼称の変更による指示物の変化みたいな話もできると思う。対象の変化に名詞が付いていくという。しにふぃあんしにふぃえ、とかなり似た感じになるか。
ここにきて、関係性は消化される。かぎかっこがついた死者はもう他者ではない。
今となってはなんとなくわかる気がするとか、こうだったんだろう。なんて生きてる相手にでもあるが、所詮自分の中の論理化でしかなく、相手をどんどん作っていくだけなのだ。それが人付き合いの半分だろうけど。もう半分のわけがわからない相手が現実にいて、自分が作った理論化した相手を壊していくような、つまり現実の生活であったり活動をする相手がいること、自分が作り上げたイメージを破壊することがなくなってしまったら、それは他者ではない。
自分の胸の中で生きている。みたいなかっこいい表現があるが、あれは昔からものすごく嫌いなのだ。臭いからとかじゃなくて意味的にも。
ある人の行った行動が感動して、自分を動かすことなんてたくさんあることで、その人を受け継ぐ、みたいなことは冒涜じゃないのかと思う。
受け継いだり、繋いだり、できないぐらいのものがそこにはあって、その他者の絶対性のようなものを無視して軽い表面だけをすくっちゃいないか。そういったものはしばしば生き方とか哲学なんて言われる、学問的なテツガクじゃなくてね、部分だろうけども。
もちろん受け継いだり、繋いだりできるものもあるのだろうけども。そればかり注目されてないか。そんなものはその人にとって本当に少しんものもので重要なのはそっちじゃなく、受け継げないものであるのに、それを直視せずに、気持ちよく消化してしまうのは、それまであったグチャグチャの関係性が一方の内面で処理されてしまったことではないか。何も言わなければいいのに、その沈黙に耐えられない作品は、やっぱり、厭。沈黙できる作品はやっぱり凄い。
やっぱり、きよしろーのときも思ったが、死者に対して判断を保留すること、理解しようとしないこと、気持ち悪い感じをできるだけつかんでいること、がなんとなく、大切な気がする。だが、それを意識して持ち続けるのも変なのだけれども。それがなくなってしまえば本当に死んでしまうんだろうけど。かといって「生かし続けたい」わけでもない。どうしたいんだろうね。俺は。まぁ、素直にかぎかっこつくまで時間経過させるしかないのだろうと思う。本当はすでにかぎかっこついてるんだけど。それを受け入れるようになるってことか。
で、初めに戻ると、透明な存在ということが神と死者とで共通する部分か。その存在を感じる、経験する方法が神と死者とで異なる。死者がいたことで神が発生したのではないか。死者という、経験で存在を了解できる相手が透明な存在、非存在へと移動してもなお、なんかもやもやと存在し続けることで、神様みたいなもっと上のもやもやが考えられたのかな。黄泉と高天原といった死者と神との相対性ではなく。死者が先なんじゃないって話。
気分悪くした人いたらすいません。こんなやつなんです。