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ほも・るーべんすと名付けたのはよいのだが、名付けるまでに多くの名前で呼びすぎたせいか、はたまた私の名前に対する意識が欠如しているかどうかは分からないが、その名前を呼ぶことは非常に少ない。他の雑多な名詞を代用してそれを指してしまうために何の事を言っているのか分からないことが屡あるようだ。だが、私の中では非常に明白で、その向日葵は私の気分によって名前は変化し、同時にそれは私はほも・るーべんすと名付けた存在、それの本当の名前、コアとなる名前はほも・るーべんすと呼ばれるのであり、それ以外は私がそれを示そうと思ったときの文脈上でそれを意味するときの音、そう音節、によって名前が変化するのである。その時々において私がそれに対する感情、そのようなモノがあるのであれば、において常に変化しつづける主体とその観測結果というものでも反映した名前ではないのだろうか。などと考えていた。